『ブダペストの世紀末』

ブダペストの世紀末 都市と文化の歴史的肖像(新装版)

ブダペストの世紀末 都市と文化の歴史的肖像(新装版)


ドイツ在住で、ハンガリーに取材に行ったりしている友人がおり、ヨーロッパの中でもとびぬけて酷いというハンガリーの政治と社会の極右化の現状について聞くことがあった。
メディア検閲制度や、排外主義の台頭とマイノリティへの差別激化(武装した排外主義集団が、ロマの居住地の周りをうろついているという)、憲法改正国民主権の制限、そして政権の中央銀行への介入など、ナチス時代さえ想起させるような政策と社会状況が現われており、他のEU諸国はしばしば警告を発してきたそうだ。
政権自体が極右的であり、周囲の国々や同盟国からも警戒感を持たれているという意味で、いまや日本とハンガリーは、(国の規模は大きく異なるが)現代の極右化のトップランナーと言ってもよさそうだ。
そんなこともあってハンガリーの歴史に興味を持ち、この本を読んでみた。
(以下、引用のページ付けは、1991年出版の初版本から)


著者のジョン・ルカーチだが、マルクス主義思想家のゲオルグルカーチとはまったくの別人。もちろんハンガリーブダペスト)出身であり、アメリカ在住の有名な歴史家らしい。
この本は、著者が生まれる以前の1900年頃のブダペストハンガリーの様子を、豊富な資料をもとに描きあげ、分析した作品で、史書としても、回顧的な読み物としても、第一級のものであろう。これだけの内容を、これほど魅惑的な筆致で語れる能力の高さに、まずは感嘆した。


読んでいて、驚きとともに教えられることが多かった。
本の主題になっている1900年頃のブダペストだが、当時はヨーロッパ有数(人口では六番目)の大都市であり、またヨーロッパでも最も急速に拡大・発展している都市といわれていたそうだ。世紀末の25年間で、その人口は三倍に膨らんだとのこと。
象徴的なのは、鉄道網の充実ぶりで、当時ハンガリーの鉄道密度(10万人あたりの線路の長さ)はフランスに次ぐものであり、オリエント急行などの国際列車や郊外を走る通勤電車が集まる主要な二つの駅は、ヨーロッパで最も大きくモダンな駅に数えられたという。地下鉄がヨーロッパで最初に走ったのも、このブダペストだった。
また、この時期にはモダンな建物も急速にその数を増し、高層建築こそなかったものの、その繁栄はニューヨークなどアメリカの大都市に、しばしばなぞらえられたという。80年代にヒットした映画『ストレンジャー・ザン・パラダイス』に、冷戦期のハンガリーからアメリカに住む親戚を頼ってやってくる娘が出てきたが、この時代からブダペストの人たちにとって、アメリカはどこか身近に感じられる国だったようだ。
新旧の文化が混然と溶け合った街の雰囲気は、モダンでコスモポリタン的な独特の社会と文化を育んだが、その一方で急速な人口の増大・過密化(農村部から人々が大量に移住してきた)により、住環境の劣悪化など、さまざまな問題も発生していた。
古くからヨーロッパのなかのアジア、西と東の境目のように言われ、文明の発展の外にある感のあった大部分の国土と、急激にモダン化・大都市化していくブダペストの間で、大きなギャップが生じていたとのことである。
そこから生じる問題のなかに、たとえば「ジェントリ」と呼ばれた農村部の小地主階層の人々が、都市化のなかでブダペストに移住してきて、彼らの多くは(経済的に豊かではない)役人になるのだが、ナショナリズム民族主義)的な傾向が強く、都市の比較的裕福な階層を占めることの多かったユダヤ人に対する反感が、その人々のなかに生まれていった、というようなこともあったらしい。
だが、1900年頃には、そうしたことは、まだ深刻な対立や亀裂にはいたっていなかったということに、著者の主張の力点がある。

都市派と人民派、商業派と農業派、国際派と民族派ユダヤハンガリー人と非ユダヤハンガリー人、こうした二つの文化と文明を分けるもの、その間に致命的な不和を引き起こす要因となるものは、一九〇〇年のブダペストにすでに存在していた。しかし、亀裂はまだ入っていなかった。これらの要素の共存は、依然として、よい結果を生んでいた。差異や嫉妬はあったが、誤解や敵意はほとんど表面化していなかった。このような状況が、一九〇〇年のブダペストに繁栄をもたらしていたのである。(p121)

ハンガリーという国全体の歴史や、当時の状況についての記述も興味深い。
まず、当時のハンガリーが、ハプスブルク家オーストリアから多くの自治権を認められながらも従属した、いわゆる「二重帝国」の形をとっていたことは有名だが、そのハンガリー王国自体が、第一次大戦までは現在の三倍という広大な領土を有していたことは忘れがちである。大戦でその三分の二の領土を失ったとき、民族的自尊心の高いハンガリーの人々(マジャル人)の被った喪失感は、やはり甚大だっただろう。
また、何より驚いたのは、ハンガリー語(マジャル語)が、いわゆるインド・ヨーロッパ語族ではなく、フィンランド語やエストニア語などとともにウラル語族に属する別系統の言語だということである。ハンガリー語では、日本語や朝鮮語、中国語などと同じように、「姓」(家族名)と「名」(個人名)の順番が、英語などと逆になることは知っていたが、言語そのものがこのように別系統であるということは知らなかった(本書の大きな魅力の一つに、ハンガリー語ハンガリー文学に対する著者の偏愛的とも思える称揚があげられる)。
そこから生じる(ヨーロッパや周囲の民族からの)孤立の感覚とともに、マジャル語の顕著な特性とされる明言的特徴(物事に含みを持たせず、はっきりと表現する)も、言語の面で、この社会の性格を規定してきたらしい。特にそれは、潜在性や深みを重んじるドイツ語とは、著しい対照をなしているという。
政治的にはオーストリアが、文化・言語的にはドイツが、民族にとって常に意識される存在だったと考えられよう。


ハンガリーの歴史は、オスマントルコオーストリアといった強国に支配されることの連続だったわけだが、そういう歴史的経緯や、それに由来する面もあるかもしれない上記の言語の明言的特徴といったものと、おそらくは深く関わっている傾向として、社会や文化の男性主義的な性格ということが見られる。
男性中心主義・男性支配のイデオロギーは、どの国や社会にも根を下ろしているものだろうが、支配的な、あるいは安定した国家や集団ならばそれはしばしば巧妙にソフィスティケートされるけれども、ハンガリーのような被抑圧的な歴史を持つ社会では、むしろ強調されたり誇示される傾向があるようである。
このマッチョ性のようなものは、1900年頃のハンガリーの政治状況においては、議会の場での極端な演劇的性格という形態をとってあらわれた。当時の国会政治は、議員たちの「無分別な政治修辞学」や大言壮語の応酬を、国民が楽しむ一種の娯楽の場と化してしまい、まともな政治の遂行は行われ難かったらしい。
勿論その背景の一つには、当時のあまりにも急速で偏った経済的発展(外交や軍事などの分野はオーストリアが代替していた面が大きかっただろう)から生じた、一種のアンバランスさがあったと考えられる。

一九世紀には、ハンガリー気質の基本的特徴である悲観主義が、まったく無分別な楽観主義の登場によって、その陰に隠されることになった。この楽観主義は、多くの面で民族のダイナミックな高揚の一翼を担ったが、近視眼的であると同時に無邪気持(ナイーブ)なものであった。(中略)この種の楽観主義は、「次の世代が犯すことになる数多くの決定的な政治上の誤り」を準備するものであった。(p143〜144)


この過度の楽観主義は、国内の他の民族に対する同化主義の信仰に近いような考え方を含んでいた。言語を含めてすべて「マジャル化」することが、誰にとっても最善の道だ、という無邪気な信念である。




ここで、19世紀後半からのハンガリーの歴史を簡単に追ってみる。
名高いヨーロッパの「革命の年」である1848年、ハンガリーでもハプスブルク家に対する独立戦争が勃発する。直後にオーストリア軍によってこれは鎮圧されるのだが、それから20年後の1867年になって、ビスマルクのドイツに敗れて多民族帝国としての国勢を維持しがたくなったオーストリアは、独立戦争時のハンガリーの要求をおおむね受け入れて自治権を認める、いわゆる「二重体制」の提案を行うことになった。
オーストリア=ハンガリー帝国の誕生であり、ハンガリーブダペストの経済的繁栄の道は、この時に始まったと考えられるのだが、これはしかし完全な独立ではないことから、「妥協」という語で呼ばれる歴史的出来事となったのである。
この「妥協」に対する不満が、ハンガリーナショナリスト(上記のジェントル層を代表とする)の中にはくすぶり、それが経済発展や都市化の急速な進展と、それのもたらす社会の変容のなかで、その民族主義を次第に不穏なものに変質させていった、という経緯があったようだ。


オーストリアハンガリーの、独立闘争と「妥協」の経緯を読むと、イギリスとアイルランドの関係を思い出す人が多いのではないだろうか。

二〇世紀初頭のハンガリー、イギリス、アイルランドは互いに大いに異なる国家だったが、政治的変転の様は憂鬱になるくらいよく似ている。一八九〇年以降、イギリスでもアイルランドでも、古い自由主義思想――そして、イギリスとアイルランドの二重体制、つまり、アイルランド自治という考え方――が崩壊し始めた。(p160)


著者ルカーチの立場は、どちらかというと、「妥協」と「二重体制」という自由主義的な解決策を台無しにしてしまった、ナショナリズムの急進化に対して批判的である。
ただ、著者はハンガリー(マジャル人)のナショナリズムそのものを批判するわけではなく、それが歴史の流れの中で排他的あるいは自己中心的性格の強いものに変質していったことを指摘しているわけである。
ハンガリー・マジャルのナショナリズム(敷衍すれば、アイルランドなどナショナリズム一般)を、悲劇をもたらした排他的で急進的なもの(ショーヴィニズム)から区別して擁護したいという、著者の姿勢が、そこには表れていると言えよう。


しかし、そもそもハンガリーアイルランドでは、そのナショナリズムをめぐる事情に大きな違いがあったことは重要だ。
それは、(オーストリア帝国だけでなく)ハンガリー王国自体が、領内に多民族を抱える広大な国家だったということである。先に書いたように、その自己中心的なナショナリズムの高揚は、人口の半数近くを占める多くの少数民族・非マジャル人たちへの同化主義的思想(特に教育の場で、言語の同化が強要された)となって、すでに近代化の進展や都市(ブダペスト)の膨張以前から現われていた
この点で、ハンガリーナショナリズムの性格に対する著者の見方は、この本が書かれた1988年、「壁崩壊」の前夜という時代状況を考慮しても、現在の状況から見るとき、やはりやや甘いのではないかというのが、正直な感想だ。




何より、ハンガリーというよく知らなかった国の歴史に魅了された読書だったが、日本との比較ということで言うと、重要と思えることの一つは、やはり「妥協」の両義的な性格だ。
日本の場合、特に近世(江戸時代)には、世界でもあまり例がない程の町民文化・町民社会の繁栄ということがあった。僕はこの点は、やはり高く評価するべきものを持っていると思う。同時期の朝鮮や中国と比べると分かりやすいと思うのだが、たとえば大衆レベルであれだけの出版物が流通し、広く読まれたり、作品が作られたりした社会というものも、ちょっと無いのではないか。これには色々な理由が考えられるが、事実として、そういう特性がある。
だがその繁栄や創造性や洗練は、庶民(市民)が武装を放棄し、統治権力との対抗を断念するということ、いわば政治や軍事といった事柄を、まったく支配層に委ね、自分たちは商売や文化(町人文化)的なことに専念する、という権力従属的な形で獲得されたものだった。
ここに、支配権力との「妥協」によって成立した経済的・文化的繁栄という、世紀末のブダペストとの共通点が見出せるのではないかと思うのだ。
こうした「成功」の感覚は、たとえば戦後の社会においては、政治家や官僚、あるいはアメリカといった支配者たちに、政治や外交や軍事といった事柄を全て委ねる(服属する)ことで、経済発展や非政治的な文化の形成だけに専念するような態度を生み出してきたのではないか。
それは確かに、一つの成功(生存)のための道だとはいえようが、そこでは支配権力というものに対する実感、また自らが支配権力の一部であるという実感も、希薄になるということが考えられる。いわば、権力に保護されている状態が自明化されるということが起こる。
ジョン・ルカーチのこの著作は、このような、政治的現実感覚の欠如を代償として得られた経済的・文化的繁栄というものが、外側から来る社会の激動に直面して、人々にどのような心的傾向を生じさせるかという問題についての、一つのヒントをわれわれに与えてくれているように思う。
20世紀初頭のハンガリーにおいては、それはマジャル人たちの急進的で自己中心的なナショナリズムを刺激し、自由主義的な社会の崩壊と、やがては反ユダヤ主義や親ナチス的な政治体制の選択という方向に進んだのであり、その体質は冷戦終結グローバル化を経た今日なお、十分に清算されないままに回帰していると考えられよう。
一方日本の場合には、それは「保護してくれる権力」の幻想への、頑なな固着、という現象を生じさせているのではないか。それを「天皇制」と呼んでも、「封建主義的な社会秩序」と呼んでも、母性的な権力のイメージと呼んでも、あるいは日米同盟の神話と呼んでも、それぞれあてはまる場面があるように思う。
私たちは無垢であり、私たちを保護してくれる政治権力は、常に正しく慈愛に満ちて神聖だ、というわけである。
そうした自己愛的でもある、いわば政治否認的な世界観が他者へと向けられたとき、往年のハンガリー王国がそうであったように、大日本帝国という「多民族帝国」もまた、自己中心主義的な同化主義思想を強制することを、誰にとっても最善の道だと夢想したことは、むしろ必然的であったのだろう。
この国においても、その錯誤的な世界観は、まるで清算も反省もされないまま、グローバル化以後の今日に回帰してきているのである。