『ゆたかな社会』

派遣の解雇など大リストラで凄惨なことになってきてるのに、それを受けてなのか、このところ株価が上がってるのは、嫌な感じですね。
まあ、下がっても困るんだけど。


さて、有名な本だが、最近ようやく読んだ。


すでに十分に「ゆたかな社会」が形成されているはずなのに、なお「生産の増大」を求めつづける社会と経済学の趨勢を批判した、先駆的な本。
初版の出版は1958年。
今日の社会がなお、財貨の生産の増加*1をもって社会の進歩の基本的尺度とする考えに縛られていることの諸理由を、著者は次のようにまとめている。

このことの一部の理由は、生産が生活そのものにほかならなかった昔の世界と現在の世界とを結びつけているところの思想の偉大な継続性の結果である。また一部の理由は既得利益である。また一つには、消費者の必要に関する近代的な理論の技巧的なまやかしの結果でもある。そしてまた一つには、さきにみたとおり、生産と経済的保障との堅い結びつきのために、生産に対する強い関心をもたざるをえないことにもよる。(p410)


著者は、とくにこの最後の理由を克服する方法のひとつとして、「生産と保障との分離」、今で言う「ベーシック・インカム」のもとになるような提案を行っている。


だが、レーガン政権下の1984年に出版されたというこの第4版で、もっとも鮮烈な印象を受けるのは、その版の序論(「『ゆたかな社会』再考」)とあとがきに記された、「貧困の現実の否認」という「ゆたかさ」がもたらした、われわれの社会の精神の歪みに対する著者の怒り、いや、同じ人間としての恥辱の意識だ。
「あとがき」には、次のように書かれている。

われわれは、ゆたかさとともに、その便益及び文化から排除された人びとを安易に無視して平気でいる、という危険がある。そしてわれわれは、この無視を正当化する理論を展開する公算が大きい。(p420)


それからほぼ四半世紀たって、ガルブレイスのこの「公算」もまた、まぎれもなく的中したことを、われわれは知っている。
貧困の現実の無視を当然とする社会の趨勢を、著者は次のようにも非難している。

現代のアメリカでは、貧困は面倒な問題ではなくて、恥辱である。(p390)


もちろん、「アメリカ」を「日本」と置き換えても、「世界」と置き換えても、そのままあてはまるだろう。
われわれは、貧困の否認を当然のこととして正当化するような、「恥知らず」の汚辱にまみれて生きている。
そうした自分や他人に対する「恥辱」の意識だけが、希望を拓くのだ。

*1:ガルブレイスは、「生産」を「生存」に対立させている節がある。また、「生産(勤労)イデオロギー」の欺瞞性への攻撃には全面的に賛同するが、「生産」や「労働」についての彼の考え方には、若干疑問もある。