倫理的であること

日曜の深夜、薬害肝炎訴訟の原告たちの姿を描いた日本テレビ系のドキュメンタリー番組を見た。


見ていて一番複雑な気持ちになったのは、雨が降るなか傘もささず路上でビラを配ったり、署名を集めたりしている原告(患者)たちの姿である。
被害を受け、裁判をおこした当人たちだから当然といわれるかもしれないが、多くは重病に蝕まれている当人たちばかりが活動の現場に立っている姿には、見ていて罪悪感のようなものを感じた。
もちろん、当人たち自身が主体となって行動するということには、さまざまな意味があることは分かる。また、なんのかんの言っても自分の身に事が降りかかっている人でなければ、なかなか十分な行動をすることが出来ないというのも、その通りだろう。
だが、今の日本の社会では、「自分の身に降りかかっている人」と、そうでない人たちとの間が、あまりにも大きく開いているという感じは強い。


その結果どういうことが起きるかというと、当事者であることによって、否応なく社会の現実や、自分たちの心のあり方にまで直面せざるを得なくなった(させられた)人たちは、ときに周囲からは過剰と見えるまでに倫理的な正しさへの意識を保持せざるを得なくなり、その姿がそのような倫理的な思考から目をそむけていたい人々を苛立たせ、バッシングを引き起こしかねないことにもなる。


たとえばぼくの場合には、原告たちが街頭に立ってビラを配っている映像を見ても、行って配るのを手伝おうと思うほどには倫理的ではないが、その姿に心が痛むという事実を否認しない程度には倫理的なのである。
一方世の中には、手伝おうとしないばかりか、そのことに疚しさを覚えているという事実(つまり、自分のなかに倫理的な生の芽があるという事実)を否認したい人もおり、その人たちの一部は、他人のなかに芽生えたものまで摘んでしまおうとすることがあるのだ。
人は誰も、自分から好んで倫理的になるわけではないだろう。倫理的であらざるをえないから倫理的になってしまうのである。ある意味では、社会や他人(われわれ)の抑圧と無関心が、さまざまな当事者たちに倫理的な生き方を強いているのだと言えるのかもしれない。
それでも、人がそのように倫理的でありうるということ、多大な苦しさがともなうはずであるのに、そうした生を選択する(否認しないことを徹底して選択する)人が現に居るというその事実には、どこかわれわれに「解放」を予感させるところがあるのだ。
そこにわれわれは、暗闇に慣らされた眼を刺すような、だがかすかに暖かい陽光のきざしのようなものを感じているのである。


だがその陽光が、気に障ってたまらぬという気持ちが、もちろんぼくたちのなかに、ぼく自身のなかにも強くある。
そして、その気持ちに乗じて、この倫理的なものの芽生えを、今のうちに摘み取ってしまいたいと考える者たちも、この社会には、またどんな社会にも多くいるはずだということである。
その理由は、この芽がぼくたちのなかで大きく育ち、枝や葉を交わらせるほどに繁茂することが、この者たちには何より怖ろしいからに違いない。
われわれが本当に憎むべきなのは、自分と社会の内側にある、こうした力の方だろう。

洞窟のそとへ出た人間は、巨大な野獣を怒らせます。(スタンダールの「どのような正しい推論でも人を傷つける」を参照。)
 知性は自分で自分を傷つけます。推論は洞窟のなかの人間を怒らせます。(『ヴェーユの哲学講義』ちくま学芸文庫 p362)


ヴェーユの哲学講義 (ちくま学芸文庫)

ヴェーユの哲学講義 (ちくま学芸文庫)