テロルと呼ばれるべきもの

元厚生省次官宅連続襲撃事件の容疑者が出頭・逮捕されてから日数が経った。
捜査当局は、この事件を容疑者の自供どおり単独犯行と見定める方向のようであり、当初はそれに懐疑的な記事を載せていたらしい一部週刊誌を含め、マスコミの大勢も、それに異議を唱えていない。
ぼく自身は、この説に疑問を持っているが、もちろん憶測の域を出ないことなので、ここには書かない。
ただ、言っておきたいことがある。


容疑者は、自分の犯行は「年金テロ」と呼ばれるようなものではないということを、いの一番に供述したそうである。正確にいえば、そう供述していることが、いの一番に伝えられた。
このことをもって、今回の犯行を年金行政への不審および年金行政のあり方を批判する報道と結びつける論調が否定されると同時に、この犯行を「テロ」という言葉と結びつけるような論が、否定・抑制されることになったのである。


だが、テロルということ、とくに政治的テロルと呼ばれるものの元来の意味は何かというと、その暴力がもたらす恐怖によって、政治のあり方や、とくにその基盤をなすべき言論と報道のあり方に抑圧が働くこと、このこと以外ではないはずである。
実際、日本の近現代史においても、多くは右翼団体や軍人によるそのような行為が、テロと呼ばれてきた。「白色テロ」と言われるものである。
そのような行為は、はじめから「恐怖による言論の抑圧」という目的をもって行われる場合もあるが、むしろ暴力によるこの抑圧(恐怖の支配)が結果としてもたらされたとき、いわば事後的に、その行為は「政治的テロル」であったと言われるのである。


今回の事件に、明らかにされていないような政治的背景があったかどうかは別にして、この事件が、結果として行政・政治のあり方や、とりわけその基盤をなすべき報道・言論のあり方に、なんらかの抑圧的な影響を与えたならば、それはまさしくこの事件が「政治的テロル」として機能した、ということである。
その影響の与え方のひとつとして、行政や大企業への批判な報道の「行き過ぎ」に対するマスコミの自制、という効果も、当然考えられるだろう。
「テロに屈せず」という耳にタコの出来た言い草があるが、われわれがなすべきことは、そのような意味での「政治的テロル」を成就させないという意味で、言論の自由によって「テロに屈しない」ということだろう。


この事件のマスコミへの「テロル」としての効果ということは、容疑者自身が、その凶行が報道の「行き過ぎ」の結果であったことを後になって否定したとしても、その効果はすでに十分に発揮されている、ということが考えられる。むしろその容疑者による否定の言明は、マスコミの報道の抑制がテロルの「効果」であることを隠蔽する役割を果たすだろう。
これは、もしマスコミが、このような事件がなくとも、元々「行き過ぎ」た報道を自粛したいという願望を持っていたのであれば、なおさら好都合なことである。


問題は、この犯行を「テロル」という言葉と切り離すことによって、何が正当化されるか、ということだ。
それはこの事件に対するマスコミの責任を回避しながら、同時にマスコミが権力に対する批判的な報道から撤退していくことを正当化する。
「年金テロではなかった」という言明は、二次的なアリバイのようなものとして機能しながら、「過剰に」批判的な報道が暴力を引き起こしかねないという「反省」は、大衆に対する報道「自粛」への口実として効果を果たす。
すなわち、「政治的テロル」は事後的に成就されるのである。


マスコミは、海外で起きた事件については、とくに左翼的なテロルという意味で、「テロ」「テロリスト」という語を無批判・無反省に濫用しながら、今回のような事件については、「テロル」という語の使用を巧妙に排除する。
つまりは、「白色テロル」がもたらしうる政治・言論への効果を、「テロル」という暴力の規定から巧妙に取り除いてしまう。
そのことによって達成されるのは、自らが言論の自由の廃棄に加担していくことの隠蔽、「恐怖による」ということさえ実際には口実にしかすぎぬ、ひたすら功利的な「言論への敵対行動」の正当化なのである。