『実存から実存者へ』(読書中)

実存から実存者へ (ちくま学芸文庫)

実存から実存者へ (ちくま学芸文庫)

終戦直後に出された、レヴィナスの初期の著作とのこと。
この訳書は、訳者の西谷修による注がたいへん丁寧で、基礎的な知識をフォローしてくれるのが有り難い。


さて、まだはじめの部分を読んだだけだが、面白いことがたくさん書いてある。が、それらがどうつながるのかが、まだちょっと見えにくい。
一点だけ、整理しておく。


ここでレヴィナスは、「怠惰」や「疲労」ということに注目する。
彼の言ってることをぼくなりに言いかえると、それらの現象は、私とこの世界との現実的な関わりが、欲望によって結ばれたたんに功利的な関係ということに還元しきれないこと、つまりわれわれの現実的な生(営み、労働)には、それ以上の、狭義の「労働」や利己性以上の「意味」があることを示してるのである。


たとえば人が「怠惰」になるのは、現実のなかに入り込んでいくこと(労働)に、狭義の労働(生きるため、稼ぐため)という以上の重み、責務のようなものを直感して、それを回避しようとするがためである、とレヴィナスは言う。
この「責務」とは、後年の思想では、「他者の身代わりになる」と述べられる人間の生の(存在を越えた)「意味」、倫理的な責務のことである。
倫理的に言うなら、生は根本的に(資本主義とは相容れない意味で)「労苦」に他ならないのであり、そのことを直感することが、人が「怠惰」や「気だるさ」にとらわれる理由だ、と言う。
では逆に、現実の社会で勤勉に労働をしている人は、そうした根本的な「責務」から逃避していないであろうか?もちろん、そうではないということを、レヴィナスは言っている。怠惰と同様に、勤労(社会性)もまた、その元来の「意味」を見失い、たんに功利的なものとなっている場合は、やはり「責務」、「労苦」からの逃避の、言い換えれば他人への責務からの逃避の、一形態である。
だから、こう書かれる。

他人という脆弱な他性そのものを前にしての根本的な怖じ気は、むしろ病的なものとされ、世界からは追い払われる。(p082〜083)


要するに、レヴィナスハイデッガー的な「死の思想」に行き着く「生と死」の二項対立を斥けるのと同様に、「労働(社会性)と怠惰」の二項対立も、インチキな(存在の支配の枠内にある)ものとして斥けるのだ。
それらを共に乗り越えるものとして、他人への倫理的な責務によって意味づけられた、労苦(労働)としての生、労働の真の意味というものが見い出される。


だから、レヴィナスにおいては、資本主義的な労働が否定されるのではなく、資本主義的な労働には狭義の労働以上の「意味」があるのだ、という話になる。
このことは、レヴィナスハイデッガーのように、世界(存在者)をたんに手段としてとらえたのではなく、存在の「糧」として捉えたこと、また人間が世界と結びつく基本的な力として「欲望」を重視したことと、深く結びついているだろう。
つまり、ここでレヴィナスが批判しているのは、ちょうど生の外部に「死」による救済を仮構したのと同様に、資本主義(的な欲望)の外部に人間の本来的な存在のあり方を仮構することによって、国家社会主義(ナチズム)に加担していくことになったハイデッガーの思想ではないかと思う。
レヴィナスは、それに対して、世界(資本主義、欲望)に外部はない、と言ったのだ。

経済的人間から出発するマルクス主義哲学の偉大な力は、説教の欺瞞を徹底的に排するその能力にある。(p091)


レヴィナスの、「存在」を乗り越えようとする思想は、(マルクスと同様に)資本主義という外部のない現実と全面的に向き合い、その営みの中に、利己主義や功利性を乗り越える「意味」と、またその実現の方途を探ろうとするものだったとも言えるのではないか?