遅ればせの感想

こちらでも紹介されていたが、今月のはじめ、大阪の西成高校というところで、藤原和博さんによる「ホームレス問題を考える」公開授業が行われたとのことである。
http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20081002/p1


http://www1.odn.ne.jp/~cex38710/thesedays14.htm


このことについては、自分のような部外者の立場では言いにくい面もあるが、簡単に感想を書いておこうという気になった。


ぼくは、こういう授業の機会をもったとき、生徒たちに、さまざまな生き方があるということを実感する可能性が開かれたらいい、と思う。
受験や学校の勉強の競争から落伍したら終わりだということでなく、人間にはさまざまな生き方がある、ということ。


たしかに、現在の世の中では、職を失って「ホームレス」の状態になるということは、生存の危機に直面するような苦難であろう。
だから、子どもに向かって「勉強を頑張らなくても、野宿をするようになってもいいんだよ」という風には、とても言えない。
だがこれは、そのような状態になることが、ただちに生きていくことの困難に直面したり、蔑視や排除、攻撃の対象となるような、世の中のあり方の方がおかしいのである。
その「世の中」の仕組み、あり方のおかしさに目を向け、自分が生きていくことを、自分が世の中のあり方を変えることに参画する可能性の発見と共に、見つめ直す機会になるなら、このような授業は、子ども(学生)自身にとって、大きな意味があると思うのである。


正直、野宿者の人たちが構造的に生み出される背景には、資本主義的な競争や、家族のあり方に関わるような問題があり、その構造を問わないままに、端的に言えば競争社会の現実を是認する構えのなかで、「ホームレス問題」を教えるということは、どこか矛盾しているような気はする。
とはいえ、藤原さんにも、こうした事柄を授業で取り上げていくということに、それなりの考え、熱意がきっとあるのだろう。
そのことが、こうした授業の機会、とくにそのなかで学生たちと野宿の人たちとが関わる機会が増えることによって、予想できないような何かを一人一人の人生に生み出す可能性が生まれることにつながればよい。


こうした授業が、ぼくや授業を企画した人たちの意図を越え、予測を裏切って、生徒たち一人一人の考え方を広げ、生きる力を増幅させるものとなればよい。
そうなってこそ、さまざまな「ホームレス問題」と呼ばれるものは解決し、野宿をする人たちの存在が、もはや「問題」と名指されるものではないような社会が実現していくはずである