『存在の彼方へ』

存在の彼方ヘ (講談社学術文庫)

存在の彼方ヘ (講談社学術文庫)


この本のなかでレヴィナスは、「他人の身代わりになる一者(私)」ということが、人間の生の「意味」であり、そこにこそ「存在」を超脱する契機がある、というふうなことを書いている。つまり、人間は「存在」というものに徹頭徹尾縛られているが、生の根本の意味が「他人の身代わりになる一者」ということにあることを認めることにより、というかそのような超越的な命令を否認せず従うことによって、存在の支配から解き放たれることが可能になる、というわけである。


このことは、レヴィナスが「存在」の本性を、自らの存在に固執するということに見出していることを考えれば、比較的理解しやすいだろう。
つまり、「他人の身代わりになる一者」とは、自分が飢えているときでも、自分の口から食べかけたパンを引き剥がして他人に与えるというような行為に示される態度のことを具体的には指しているが、それはまさに「自分自身の存在・エゴ」に対する固執から解き放たれる行為、というふうに見なせるからである*1


こう書いたからといって、レヴィナスは死や、犠牲としての死を「存在への固執からの解放」として称揚しているわけでは無論ない。
それは、端的に言えば、人はおのれの存在に固執するがゆえに生を選ぶ(執着する、闘争する、陶酔するなど)こともあれば、同じくおのれの存在に固執するがゆえに死を選ぶ、ということもあるからである。
レヴィナスが抵抗し、そこから解き放たれるべきと考えているものは、この「存在に固執する」ことの総体なのである。それを可能にするものとして、「他人の身代わりになる一者」という「意味」は見出されている。


とはいえ、レヴィナスの「身代わり」の思想には、どこか「犠牲」を想起させるもの、あるいは文字通り「身体」の否定につながるような響きが感じとられる。
「身代わり」の思想は、基本的には(身体を通じた)生の思想、生を「存在」(レヴィナスの考える「存在」は、「存在論」と、つまり言語と不可分である)から解き放つ思想と捉えるべきではないかと、ぼくは思うが、実際にレヴィナスの文章を読むと、それは身体を犠牲に供する思想であるかのような印象を受ける。


これは、レヴィナスが、人間の身体(質料)をあくまで「存在」に属するのみの否定的な、少なくとも中間的なものとして捉えているためではないかと思う。
レヴィナスはたしかに、とくにこの本の前半で、「老い」「疲労」「倦怠」といった身体的なイメージ、感覚の表現を多用して、人間(私)の身体が持つ受動性を強調し、そこに他者から「告発され、迫害される」と彼が表現するような、人間の倫理的なあり方の質料的なあらわれを見出しているように見える。
だが、レヴィナスが「可傷性」という言葉で示す、そうした人間の根本的受動性は、「質料の受動性よりも受動的な受動性」と明確に述べられているように、終局的には身体とは無縁なものであり、身体は結局、「存在」の一部という以上の位置を与えられることはない、というふうにぼくは読んだ。
実際、レヴィナスは、こうした人間の根本的な受動性は、(身体の)受容性とは別のものであると、何度も書いている。


こうして、レヴィナスのこの本での根幹をなす「他人の身代わりになる一者」という思想には、どこか身体を軽視し否定的に見ているような、また身体につながる生命を「犠牲」にするというような行為に強い意味づけを与えているのではないか、という疑念が残るのだ。
だが、その疑問は疑問として残したままに、別に考えておくべきことがあるように思う。
それは、このような感想(疑問)を持つ私自身は、身体をどのように捉えているか、ということである。


私が属する文化には、たしかに「存在」を身体とひとつながりのものと捉えるような伝統・枠組みがあるように思える。
これは、「生命」という言葉に関係するかも知れない。
ともかく、それは「存在」を、人を生の領域に縛り付ける鎖としての「言語」と不可分のものとして捉えるレヴィナスが属している文化とは、異質な思想であろう。レヴィナスにとっては、存在とは存在論(言語)であり、言語と別のものとして身体や生命をとらえるということは、ありえないことであるのかも知れない。
われわれは、たしかに言語に回収されないものとしておのれの身体を捉えているのであり、そこから生命や存在を、ひとつながりのもののように感じることが可能だ。そのような捉え方から見れば、レヴィナスはいかにも「身体」の非言語的な、ないしは非存在的な(「存在」からの解放の契機となりうる)可能性を軽視しているように思えるだろう。
だが、この批判に仮に理があるとしても、問題は、われわれのこの「身体」についての捉え方、感じ方が、本当にレヴィナスが「存在」と呼んで抵抗しようとした力から逃れえているのかという点、分かりやすく言うなら、それは生と死を支配する何らかの社会的・政治的・言語的な権力から、常にどの程度自由でありえているのか、という問いの必要性であろう。


身体を土台として、存在を非言語的なものとしても理解するようなわれわれの文化の思想、生命観とも呼べるかも知れないものは、たしかに近代以後、西洋的な考えの抑圧を受けたかも知れない。
だが、それを批判するだけでなく、近代以前から続く伝統のなかに、われわれの生を抑圧する、どのような政治的・言語的な力(言わば、われわれにとっての存在論)が働いてきたか、という問いが重要だろう。


たとえば現在、日本では年間の自殺者が三万人を越えている。無理心中は社会的な非難の対象にはなりにくい。中絶は、戦後のきわめて早い時期に合法とされた。安楽死についての批判的な言論は少ない。国家や企業、社会のための死は美徳とされる。死刑存続への賛成は国民の大多数にのぼる。
こういったものが、恐らく「われわれにとっての存在論」である。それは、「黙って一人で死ね」と暗黙に命じてくる。


レヴィナスが属していたのは、たとえば、自殺が厳しい宗教的禁止の対象となったり、安楽死が巨大な社会的論争を巻き起こしたり、中絶が頑迷なまでに禁じられるような国と社会を含む文化圏である。
そこでは、人の生は、言語という鎖によって「存在」の世界に縛り付けられ、解放から果てしなく隔てられていると感じられているかも知れない。
生き続けることばかりでなく、死を選ぶことも、この「存在」の支配と論理の外に出ることではありえないという閉塞の感覚、内面性のなかで、レヴィナスの「存在からの超脱(解放)」の思想は模索されたはずだ。
それは一見、身体の非言語的な可能性(生命?)を不当に低く見積もった思想のようにも見える。
だが、この本のなかで、次のようにレヴィナスは書いている。

ある――、それは他性の全重量である。(中略)意味が無意味によって凌駕されるとき、感受性―<自己>―ははじめて告知される。その底なしの受動性のうちで、感受性、<自己>は純粋な痛点として、内存在性の我執からの超脱として、存在することの転覆として告知されるのだ。(p372)』


『選ばれた者が報酬を受けることなく支えるためには、吐き気をもよおさせるあるの過剰なざわめきが、あるの過剰な充溢が必要である。(p373)』


(ともに、太字部分は、原文では傍点付き)


つまり、「他人の身代わりになる」という「意味」の遂行が存在からの解放を意味するためには、自己にとって存在そのものが過剰なまでの重さを有していることが、大前提なのだ。
この存在の過剰な重さのゆえに、端的にいえばアウシュビッツの出来事も起こったのだ、というのがレヴィナスの考えであり、それに対抗するべく「他人の身代わりになる」という「意味」の優位が存在の支配を転覆するものとして述べられている。これがレヴィナス存在論批判の現実的な意味だろう。
だがこの存在の重さは、「身代わり」による存在からの解放(超脱)を可能にする条件(前提)でもあった。


われわれはむしろ、言語的な意味でこの世に存在することのこの「重さ」をこそ、尊重するべきではないか。
そうすることによってこそ、生の価値を限りなく軽いものと考えさせようとする「われわれにとっての存在論」の支配を破砕しうるのではないか。
また、われわれの身体(身)と生に、その本来の(非言語的な)力を回復させ、それにもとづくような社会や共同体の創設を可能にするのではないか。


そして、「他人の身代わりになる」という、レヴィナス思想の要諦を、誰よりも深く理解し継承しうるのではないか。

*1:いまぼくは、「自分が飢えているときでも」と書いたが、レヴィナスの思想ではこれは「自分が飢えているときこそ」となるところだろう。しかし、ぼくはそう書かなかった。