評判のわるい世界陸上

別段「ざまを見ろ」というふうなことでもなくて、やっぱりすごくおかしいよな、このイベントは。



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世の中には、光があり影がある。
光と影と、双方を見ることによって、人は自分が生きている世界そのものの像をはじめて把握できる。
多くの場合、この世の「影」の部分を作り出してしまう一因は、自分自身であったりもする。つまり、地球が太陽の光をさえぎって月食を作り出すように、自分の存在によって知らぬ間に誰かの居る場所を、光の届かぬこの世の「影」にしてしまっているという場合がたしかにあり、それに気づくということが「他者との出会い」ということの意味でもあるだろう。


世界陸上というイベントも、商業主義や能力主義の過剰な意味づけを差し引いてみれば、そこにいくつかの人間のドラマを見ることも出来るものだろう。「スポーツ」、それも商業化されたスポーツだけが特別ではないが、そこにどんな人間にも起こりうるような「感動」や「苦悩」や「失意」や「葛藤」といったものが、ある(しかし、かなりの部分は強いられた)切迫した状況下で可視的なものになる、ということは事実なのだ。
光と影とをともに見る態度を忘れなければ、それもやはり(決して特権的ではないが)世界の像を知るひとつの機会にはなりえよう。


だが、どう考えてもこのイベントは、「影」を排して「光」の部分だけを見ようとする傾向が強すぎる。
これは、現在のスポーツビジネス全体なり、近代スポーツと呼ばれるものの出自とあり方に関わる問題でもあるから、個別の大会だけを批判の的にしてもはじまらないことは分かっている。
またひいてはそれは、われわれが生きている社会のあり方全体の縮図でもある以上、批判だけをして自分がその責を免れる者など少なくともこの国には滅多にいるはずがないということも自明のことだろう。


しかし、それにしても今回のイベントの運営と、その報道には、「影」を排除して見ないでおこうとするその傾向があまりにはっきり出ていると感じるのは、ぼくの頭に「野宿者の排除」という出来事の記憶があるからだろうか。
たしかに、大阪市による野宿者の公園からの排除などの政策は、別に長居公園に限ったことではない。また、野宿者の問題に限らず、巨大な箱物や使う人の少ない地下鉄の路線を次々に作っては大赤字を計上したあげく、売却するというようなでたらめな市政の運営は、この自治体の場合常態化しているものである。
この意味でも、今回の事例だけが特別、というわけではない。


だが、あの野宿者たちのテントの排除にいたる過程の行政のずさんさと、今回の大会運営のずさんさや、報道(特定のテレビ局の)の「暴走」に近い過熱ぶりとは、どこかでつながっているという感じがある。
とすると、今回の競技大会の準備、運営の全体をとおして噴出しているさまざまな「歪み」は、やはり今の日本なり世界の商業資本の体制、国家と行政の体制が、あまりにも露骨に、過剰に「影の排除」の欲望にとりつかれているということ、そしてそれゆえの「破綻」が生じていることを示しているのではないだろうか。
その意味で、今回の「世界陸上」開催にからんで長居公園で起きた一連の出来事は、この時代のあり方を映し出すものだったのかもしれないと、今になって思う。
もちろん、あの日そこで起きた、ひとつひとつの小さな生に対する暴力と否定こそが、忘れられてはならないあの出来事の本質なのだろうが。


いずれにせよ、「影」を否認し排除したいという欲望の過剰さが生じるのは、その「影」が誰のせいで生じているのかを、欲望の主がほんとうはよく自覚しているからに違いない。