福岡の事件の報道に思うこと

福岡の小学校一年生が母親に殺されていたという事件の報道だけど、ぼくが見聞した範囲では、母親の置かれていた状況がどれほど追い詰められていたものかということを考えようとしているものが多く、こういう状況の人を孤立させないような社会的な仕組みなり関係性なりを作っていくべき、という主張が結構多い。
これは、「こんな子殺しをするような母親は人間じゃない」というようなバッシング(日本全体で見れば、こちらの方が圧倒的かもしれない)に比べれば、ずっと良心的であると言えるかもしれないが、ちょっと釈然としないものがある。


ぼくが見たテレビ番組では、ただ一人、地元のおじいさんが、「自分の子供にこんなことをするなんて、絶対許せない」と口元を震わせていた。ぼくは、この人の反応は、とても人間的であると思った。
それは、この人には、この出来事の衝撃をまともに受けてしまっているという感じがあったからだ。
「絶対許せない」という言葉は、加害者である母親に向けられたバッシングの言葉ではないであろう。もちろん、すぐにそうなってしまう可能性は高いが、この言葉が発せられた瞬間には、そうではない。
それは、怖ろしい出来事の現前を「絶対に許せない」、「自分は決して認めない」という言葉だと思う。
それは、この人のなかにある何か脆弱なものが脅かされたという慄きの表現であり、それから必死に身を守ろうとしているのだ。


少なくともこの瞬間に(ただちにバッシングへと変質してしまうとしても)、この人は、殺された子供の側に立っている。
ぼくには、そう思えたのだ。


わが子を殺さざるをえなかった母親の苦境を思い、悲劇を繰り返さないために社会がなすべきことを構想する。
それはもちろん正しい態度だが、その前に、殺された者のそばに立つ、ということが忘れられてはならないと思う。
これは、子どもを「善」の側に置き、母親を「悪」の側において断罪してすませる、ということではない。
そうではなく、どれだけの罪や責任を、この母親のみならず、社会や、われわれは背負っているかを深く自覚するということである。
可能な限りで深く。


殺されてよい命などないはずだが、とりわけ人命はそうであるはずだが、この子どもは殺されてしまった。
そのことの重さをちゃんと受けとめずに、ただ母親の苦境をダシのようにして社会の仕組みの改良だけを論じてお茶を濁すような「良識的な」議論は、厳罰論や非道なバッシングと選ぶところがないであろう。


たとえば、こういうことを平気で言う人がある。

http://mainichi.jp/seibu/shakai/news/20080922ddg041040005000c.html

ふびんに感じたか−−ジャーナリスト、大谷昭宏さんの話


 昼間にしては目撃者が少なく非常に短時間であったこと、携帯電話のストラップで首を絞めていたことなどから、身近な者による事件と見ていた。公園で我が子を他の子どもと見比べふびんに思った末のとっさの行動ではないか。発見時に弘輝君に泣きすがったのは演技ではなく、申し訳ないという気持ちがあったのだろう。6歳児の命を奪った行為は許し難いが、社会として手をさしのべることができなかったのかとも思う。許し難いが、非常に残念な事件だ。


たとえそのわが子を「ふびん」に思ったとしても、そのことをもってその生を生き続けさせるよりも、命を奪ってしまう方がよいのだというような、「生きている」ということそのものの価値を認めないかのような考えが、この社会を覆っているということ、それを許している者が、つまりこの母親が犯したような行為(犯罪)をこの世に生じさせている最大の犯人なのだ。
「ふびん」に思うということなど、わが子を殺す行為の理由にはまったくならないということを、「ジャーナリスト」なら何よりも明言しなくてはならないはずだ。