介護にかかわる殺人と報道

朝、寝たきりになっている母親の世話をしながら、みのもんたの番組を見ていたら、60代の男性が、介護していた85歳のお母さんの首を絞めて殺してしまい、自分も首を吊って亡くなった、というニュースがとりあげられ、最近はこのように(おそらく)介護に疲れて老親を殺害してしまうというような事件が続いている、という話題になっていた。
こうしたニュースは、もちろん細かく見ていくとそれぞれ事情は違うのだが、たいがい「気の毒な事情」という感じでとりあげられる。ぼくも、もちろん気の毒であると思い、というより、自分がいつその立場になってもおかしくないという思いがあるので、なおさら批判する気にはならない。


しかし、報じられ方について、疑問に思うこともある。
ひとつは、「子が親を介護する」ということが、どこか美談のように語られている気がすること。こういう事件を起こす人が子ども(とくに、実の子)でなかったら、これほど(同情的に)大きく扱われるだろうか。
ということは、こういう報道では、「こんな悲惨な現実があるから、改善策を講じなくては」というメッセージの裏側で、暗に「親の介護は子どもがするのが当然であり、望ましい」という刷り込みがされてるのではないかと思う。
前にも書いたように、「親子だから」ということではなく、「出来る人だから」介護するということが基本であるべきだと思う。この「出来る」ということのなかに、介護される当人と関係が近いということも、要素のひとつとしてはありえ、だから子が親を介護するということもありうる。しかしそれは、そうすることが「自然」ということではない。


その一方で、よく赤ん坊や幼い子どもに対する虐待、ひどくは死に至らしめたというような、若い(あるいは中年の)親のこともニュースとしてしばしば報じられ、こちらはほとんどの場合、まるで「人間失格」といわんばかりの論調で非難される。
先に書いたように、「出来る」ということのなかに、色んな要素があるのである。子育てについても、子どもを作るのは親の責任、というのはその通りだろうが、生まれたこどもを育てていくというのは、やはりたいへんなことである。「愛情がないのか?それでも人間か」というような非難を聞くが、苦労を喜びと感じるような「子に対する愛情」というのは「自然」なものではなく、周囲や社会全体のフォローがあってはじめて湧き出てくるものだと思う。そんな事件が多発するのなら、社会や周囲にも問題があるということである。
そうした面を考えず、子に暴力をふるったり殺してしまった親の「非人間性」だけが槍玉にあげられて終わりだ。


逆にはじめにあげたような「老親殺し」の場合には、そういう非難は表立っては聞かれない(もちろん、聞きたくないけど)。
いったい、この二つの事柄は、どう違うのだろう?
小さな子供を育てる苦労と、年老いた親を介護する労苦との間に、本質的な差があるとは思われない。
親が幼い子どもを育てるのは、人間として自明(自然)なことであり「放棄」は許されないけど、自分も年をとった(少なくとも)成人した子どもが老親の介護を放棄したり、殺してしまったりする(そして自分も死んだりする)のは、「仕方ない」ときがある、ということなのだろうか?
「子どもは社会の宝」だけど、老人はそうでもないという無意識の社会通念みたいなのが、どこかにあるのか?


「親殺し」の報道にも、「子殺し」の報道にも共通点がある。
それは、死ななければ報じられない。死んではじめて報じられる。報じられることによって終わりにされる。本当はそのために報じられる。
そういう面があることである。


ぼくから見ると、「親を殺す人」「子を殺す人」、どちらの「放棄」や「虐待」や「殺害」の事例も、まったく自分のことのように思われることである。
今の社会では、そう感じている人はたくさんいるだろう。
人が人(自分を含めて)を殺さないためにどんな社会を作っていけばいいか、ほんとうに考え論じられるべきことは、それだけであろう。