「あろうと」と「あるにしても」

言葉を正確に覚えてないんだけど、聞いててすごく嫌な気持ちになったので、書いておきたい。
現在朝鮮民主主義人民共和国に在住するいわゆる「在朝被爆者」の人たちのことを扱った「NEWS23」の特集で、最後のキャスターの発言。


韓国人や北米・南米の日系人などの在外被爆者についても、日本国内の被爆者と同じ援護措置が受けられるようになったが、朝鮮に居る広島・長崎での被爆者については日本政府は何も行っていない、という問題。こうした在朝の被爆者の八割以上は、すでに死亡しているとのことだった。
その一人である女性の話と事情を中心に、援護に取り組んでいる日本の民間の医師たちの姿も紹介されていた。
ところが、かなり長い時間を使ったこの特集の最後に、キャスターの男性が何と言ったかというと、「北朝鮮の人だから、いろいろ難しい問題はあるにしても、救済されるようにしていくべき」というようなことを言ったのだ。最後の節が、記憶が曖昧だが、二節目までは、たしかにこのように言った。
そしてこの、「北朝鮮の人だから、いろいろ難しい問題はあるにしても、」という条件節が、ひどいと思うのである。


この報道(特集)が伝えようとする趣旨は、さまざまな政治的な問題があるために日本政府による救済(援護措置)を受けられずにきた人たちがいて、今も生き残った人たちが救済を待っている、ということだったはずである。
「難しい問題」があるから救済(援護)が困難な状況であるということは、この報道の前提になっているのであって、そのことが理由となって救済されない(されなかった)人たちが現に居るということの(人道上の)理不尽さを、そこまで放映したわけである。
とすると、この場面で言われるべきことは(平等な救済がなされるべきだという立場に立つなら、そしてそうでないならこの報道の意味自体が、ぼくには分からなくなるが)、「どんな難しい(政治的な)問題があろうと、救済されるようにしていくべき」ということ以外にないはずだ。
ところがキャスターは、「あろうと」ではなく、「あるにしても」と言った。
「あろうと」と「あるにしても」では、表面上の意味は同じに思えるかもしれないが、その効果はまったく違う。
前者は、現実がどのようであろうと正義(と思われること)がなされるべきだという意味合いだが、後者は、不正義(と思われる)現実の一定の是認(容認)を意味するからである。


この場面で、「北朝鮮の人だから、いろいろ難しい問題はあるにしても、」と前提であるはずのことを条件(留保)として付け加えるということは、つまりは「(政治的な理由から)救済されない人たちが出たとしても、まあやむを得ないことである」という言外のメッセージを(暗に)発しているのと同じではないか。
北朝鮮の人だから(難しい政治的な事情があるから)、被爆者であっても、日本国民や韓国人被爆者等と同じ救済(援護措置)を受けられなくても、ある程度仕方ない」、そう言ってることになる。
要するに、何らかの条件の下にある人たち(ここでは「北朝鮮の人」)は、命の重さが他の人間よりも軽いという意味になるのだ。これは、差別でなくてなんだろう。


北朝鮮の人だから、いろいろ難しい問題はあるにしても、」というような、いわば現実への配慮(是認)を、ひとつの譲歩のようにして、正義と思える主張に付け加えることが、このキャスターならずとも、われわれにはある。
そうすることで、理想(正義)が現実のお墨付きを得るかのように思えるからだ。
だがそれは、「正しくない現実」を損ねないために最も苦しんでいる人たちを犠牲にすることであり、権力と折り合いを付けるために弱い者を「人間」の領域から除外して切り捨てるようなものである。
そうした態度は、正義や救済をもたらそうという主張の内容を、自ら「嘘」に変えてしまうのだ。