気になったこと

以前、こちらでも紹介されていたNHKスペシャル『「解かれた封印〜米軍カメラマンが見たNAGASAKI〜」』の再放送を見た。


たいへん感動的な、いい番組だと思ったのだが、ひとつ細かい点で気になったことがあった。


原爆の被害の悲惨さを伝える活動をアメリカ国内で行ったオドネルという人が、退役軍人などアメリカの人々から激しい批判を浴びせられたとき、反論のひとつとして、「日本はたしかに中国や韓国でひどいことをしただろうが、それでも原爆は投下するべきでなかった」という趣旨の発言をしたと、字幕に出ていた。
その音声(英語)も流れていたが、そこでは「Korea」と言っているだけで、「韓国」と特定できる表現はしてなかったと思う(もし、英語でそう特定できるような表現をしてたのなら、もっと大きな問題ということになるが。)。
このことは、いつも問題にされることだろうが、事柄が事柄だけに、やはり気になった。
朝鮮半島」とか「韓国・北朝鮮」とか、何か他の訳し方はできないものか。


原爆投下の問題をめぐって「平和」とか「核兵器の廃絶」ということを言う場合に、アメリカと日本とが戦後形成してきた軍事的な同盟関係を批判するというスタンスは、どうしても必要だ。この同盟関係は、核兵器を最重要な要素として持っているからである。
そして、「Korea」と言ったときに「韓国」とだけ表記するという(テレビ報道上の)姿勢は、この同盟の論理(日米韓の同盟、の論理でもある)を不問にする、自明なものとしていく、ということを意味する。
つまりここでは、「平和」とか「核兵器の廃絶」という理念が、日米(韓)同盟の論理の枠内でしか意味を持てないことになる。要するに、どこまでいっても、アメリカと日本との、予定調和的な和解、という物語にしかならない。
だから、ここでの表記の問題は重要だと思うのである。


そもそも、言うまでもないことだが、被爆したのは日本人、日本国民だけではない。
被爆の経験は、いかなる意味でも、「国民的」という枠に回収されてよい問題ではない。
ということはつまり、オドネルが行おうとしたように、自国の国家の現実的なあり方を問うという姿勢が、この問題を語る際には、とくに求められるということだ。「現実的なあり方」とはつまり、核兵器を是認することの上に立ったアメリカとの同盟関係の存在である。
「中国や韓国で」という、あの訳し方は、この大切な点を流してしまうことにつながるものだと思う。