『ナショナリズムの狭間から――「慰安婦」問題へのもう一つの視座』

ナショナリズムの狭間から

ナショナリズムの狭間から

著者の山下英愛(ヤマシタ・ヨンエ)さんは、在日朝鮮人のお父さんと日本人のお母さんの間に生まれた女性だが、両親が法的結婚をしていなかったため、母親の戸籍に登録され「日本国籍」を持つことになった(本書より)。
80年代の終わりごろ韓国に留学し、女性学の研究を行ううち、おりから湧き起こった「慰安婦」問題の運動に関わることになり、いわゆる「挺対協」の活動に深くコミットすることになるが、そのなかで、韓国における「慰安婦」問題の取り扱われ方、運動のあり方(その過度に民族主義的な性格)に疑問を持ち、批判を向けていくことになる。
その考えをまとめたものが本書である。


著者によれば、韓国で「慰安婦」問題の解決運動が広く沸き起こった当初、この運動はこの事柄を「女性問題」、「性暴力」の問題としてもとらえ、日本によって行使された暴力のみならず、これまで被害者たちを圧迫してきたような韓国内(運動圏を含む)の『性差別的社会構造』に対する問題提起という性格をも持つものだった。
つまりそれは、それまで積み重ねられてきた韓国のフェミニズム・女性運動の深化の流れのなかに位置づけられるべき性格のものだった。
ところが、この運動が広まっていく過程で、マスコミや社会の側も、また運動体の側も、この問題の民族主義的側面の方を主に強調するようになった。
これには、いくつかの興味深い理由があるのだが、長くなるのでここでは触れない。
ともかく著者は、このことを批判するわけだが、この批判にはいくつかの理由がある。


そのひとつはもちろん、運動が当初批判対象としていたはずの韓国社会の『性差別的社会構造』が不問にされてしまうということだが、それは「民族主義」そのものが、父系血統主義と結びついて本質的に性差別的(男性中心主義的)だからでもある。この意味で、やはり父系血統主義に立っている日本の国民主義ナショナリズムというものが、同時に著者の批判の対象とされる。
またそれだけでなく、「慰安婦」問題は、それがまずもちろん日本および日本軍の持っていた性差別的な構造に起因する暴力であるという意味で、また朝鮮時代のものを含めて韓国の社会に内在する性差別的な構造が被害の重要な要素を形成しているという意味でも、「性暴力」の問題としてとらえることが妥当かつ重要である。
さらにまた、実際問題、「慰安婦」とされた人たちは韓国・朝鮮半島にとどまらず、日本の支配下にあったアジアの広い地域、そして日本国内にも存在するわけだから、この意味でもこれは「民族問題」という枠のなかでだけとらえることは出来ない。


だが、以上のような理由だけでなく、著者がこの運動の「民族主義的性格」を問題視するのは、そのことが被害者の被害に対する理解や共感を阻んでしまうと考えられるからである。

(前略)被害者たちに対する真の理解と共感は、民族的共感だけでは足りないからである。なぜならば、彼女たちが性暴力によって受けた被害は、基本的に個人的レベルに及ぶものであり、決して民族の被害に還元できるものではないからである。
 この間の民族運動としての接近は、被害者たちを民族の一員として暖かく受け容れる努力をしてきた一方で、性暴力を含めた被害の個別性に対して関心を寄せてこられなかったのが事実である。そして、このような運動の性格によって、以下で述べるように、民族主義の中の性差別的認識を克服する努力が後回しにされ、「慰安婦」が受けた性暴力被害に対する関心と治療を助ける作業を重視できなかったのではなかろうか。(p165〜166)

(前略)民族問題としてこの問題が扱われる時、被害者たちは同じ民族の一員という点が強調されて、彼女たちが受けた被害が民族の被害として一般化されるからである。しかし、先に述べたように、性暴力被害者としての彼女たちの傷は、肉体的にも心の傷という面でも基本的に個人的なものである。(p172)


著者はもちろん、被植民地経験をもつ韓国の民族主義的な運動や思想のあり方を、一概に否定するわけではない。むしろ、それに対する深い理解のための努力を、本書から感じることができる。
ただ、民族主義的な接近のみが重視されることで、そこからとりこぼされるものや、隠されるものがあまりに多いと、批判しているのだ。
こうした視点、それに先立つ(他者に対する)「態度」のようなものは、素晴らしいものであると思う。
ただこれらの文を読んだとき、疑問も生じた。
それは、(男性中心主義である)民族主義が幅を利かせる社会(日本も同様だ)において、問題の民族主義的な側面のみが強調されることは、たしかに「性暴力」の被害者の傷の「個人的」な要素、というより中枢を見えにくくするであろう。
だが同時に、注意しなければ、この傷を「性暴力」という枠でのみ捉えることも、その「個人的」な要素に対して、同様の抑圧的な効果を生むのではないか、ということである。

韓国の運動が民族言説の縛りを解くことでフェミニズム運動への可能性を切り開く必要があるのと同時に、日本の運動も同じ根をもつ近代国家のナショナルな枠組みをフェミニズムの視点で取り払う必要がある。(p260)


言われていることはその通りだと思うのだが、フェミニズムもまた、個人の「傷」に対して、「民族言説」のように作用しないとは言い切れまい。


著者は、韓国の社会や運動が「慰安婦」問題解決運動において示す民族主義的な傾向とその性差別的認識について、植民地支配の後遺症(心的外傷)のようなものではないか、という見方をしている。
これはうなづけるところがあるが、その対応がときに「心的外傷」の様相を呈するのは、あらゆる当事者運動に共通して言えることではないだろうか。
だからといって、それを一概に否定することもできないし、無批判に是認する(やり過ごす)というのも違うだろう。
それはある場合には、個人の心に対する圧迫として作用しかねないからである。
そこで(当事者でもある)運動主体自身がとれる態度は、著者が次のように書くとおりのことしかないであろう。

このような悪循環から抜け出すためには、まず活動家たち自身が植民地被支配民族として得た心の傷を意識化し、治癒する努力が必要であろう。自分の傷を理解する時、他者の傷も見えるであろうし、自らの心の傷を意識化することによって、自分の傷に距離を置いて、もう少し冷静に「慰安婦」被害者たちの心の傷を認識することができると思うからである。また、それが被害者の信頼を得て彼らの治癒を助けるための運動を進めて行くのに助けとなるのではないだろうか。(p178)


自らの傷と率直に向き合うことが出来なければ、他者の傷に正しく接することも出来ないということは、その通りなのだろう。
この認識は、著者自身が、韓国での葛藤にみちた運動体験のなかで学んだものであるに違いない。
そしてこれはもちろん、自ら「傷」を受けながら、他者のために(も)「運動」を実践している人たちだけが心すべき言葉ではない。
本当は、他人に「傷」を与えた人間自身が、その自らが与えた「傷」を直視すること、そのことによってさまざまな運動が孕んでしまう「過激さ」(心的外傷)を解除していく義務があるのだ。
深く傷を受けて生きる全ての人々を圧迫し続ける本当の根源、それはいつでも加害者の否認であるということを、強い自戒をこめて心に刻もう。