ストリートビュー・2

映画の題みたい。


まあ、基本的にはさっき書いたようなとこなんですが、もう少し丁寧に考えてみます。


はじめに「後ろめたさ」があると書いたけど、これはやはり他人が住んでるような場所を自分の何らかの楽しみの気持ちで対象化してるという意識から来るのだろう。
ある所の狭い道の映像を見てるときに、向こうから警官じゃないんだけど、パトロール中の民間の(退職したおまわりさん、とかかな?)制服みたいなのを着た人(うちの近所でもよく見かける)が、こっちを不審そうに(こちらにはそう思えた)見てるのが映ってた。「こっち」というのはつまり、グーグル社の車の屋根のてっぺんについた球形の物体(カメラ)を睨んでるわけである。
これが、なにか自分がとがめられてるような感じもある。
そう感じるのは、自分が無意識に「のぞいてる」という後ろめたい気持ちを持ってるからでもあろう。


ぼくはどうしても、「撮る側」の気になって考えるのは、昔よく趣味で町中の写真を撮ってて、うさんくさい目で見られたり、警官に職務質問されたりしたからだろう。
逆に「撮られる側」の立場としては、その不安な気持ちというのは、よく分かる。そして、撮影に限らず、そういう、他人の日常生活をまなざす、という行為は暴力となりうることも確かだ。
それだけでなく、大事なことは、これがグーグルという大きな企業の力により、自分や他人が何か一方的に晒されて対象化されている、という印象を与える、ということである。
一番人々が反感や危惧を持つのは、この点だろう。そしてこれは、「印象」というようなものではなく、もっと現実的な脅威であるかもしれない。
それはたしかに、生のあり方が、暴力的に、一方的に変えられてしまう、という恐怖をもたらす。


だから、ストリートビューについて、どこか否定的な気持ちを持つ人(ぼくも、持ってはいる)も、その多くは、「プライバシーが侵害されるのが気味が悪いから、もっと安心して居心地よく暮らせるようになりたい」というだけの気持ちで反対するわけではないであろう。
それよりもっと、根本的なものが侵害されるという感じ、というよりその侵害にいつか馴らされてしまうことへの、不安や不快が、そこにはあるのだろう。


以上のようなことは、分かる。
しかし同時に、何か後ろめたい気持ちを持ちながらも(この気持ちが不可欠のものであるかどうかは分からない)、あの映像を見たいという自分の欲望があることも確かである。
そして、この「後ろめたさ」を手放さないということが、非常に大事なことであると思う。
ストリートビュー的なものを、かりに完全に拒否しても、この「後ろめたさ」が隠蔽(忘却)されるなら、それは結局、「根本的なものの侵害」であろう。
無論、ストリートビュー的なものを無自覚に是認して、「後ろめたさ」を抑圧しても、というか、そこにある欲望の内容と倫理的な意識を抑圧しても、やはり「根本的なものの侵害」である。


というか、本当にこうした技術を肯定的に用いることが出来る人というのは、そういう両義性、「後ろめたさ」のようなものを否認しないのではないかと思う。
否認しているのであれば、それは本当には技術を肯定的に用いられていないのだ。


ところで、この技術の有用性については、やはり何らかのものがあるだろうとは思う。
有用性がなくても、技術やツールは(人がそれを使いたいなら)存在していっこうに構わないのだが、たとえ微小なものであっても、有用に用いられるのなら無論良いことである。
もしあまりにこの技術や、その使用のあり方(グーグル社の存在など)が持つマイナスが大きいなら、それ(技術)の存在が否定されることはやむをえないだろうが、それでも、(微小ではあっても)その有用性のニーズは残る。
そして、それ(他者のニーズ)を見失わずにいるということが、ぼくたちと技術との関係のなかで、「根本的なものの侵害」に抵抗していくということの、ひとつの条件ではないかと思う。


面白いと思うもの(技術)のなかに、他人を損ねない形で、少しでも積極的な可能性を見出していきたいものである。