セーフティーネットとしての文化行政

承前。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080728/p1


世の中には、それこそ必死に努力してても競争に敗れて倒産する会社、職を失ったり、頑張って働いてても努力したほどには給料が上がらない人など、ごまんといる。
今、大阪府が大変な財政難で、無駄をできるだけ切り詰めてと行ってるときに、「文化」の保護にだけ、競争原理に反してまで金をつぎ込むというのは納得できないという人は多いだろう。
実際、「文化」と呼ばれるジャンルのいくつかは、金持ち(ブルジョワ)の趣味であったり、王侯貴族の援助(パトロン)があってはじめて成立してきた、「金食い虫」的なものである。小泉元首相が好きらしいオペラなどは、そのさいたるものであろう。
かつて文化大革命の折には、そのような種類の文化は、人民大衆に負担をかけるだけの社会全体のぜいたく品として、糾弾され切り捨てられた。日本でも、それに影響を受けた東大全共闘の学生たちが、丸山真男の研究室に乱入して書籍を投げ捨ててしまう、なんてこともあった。
橋下知事の文化に関する物言いや態度を見てると、それらにも通じるような、市場原理に適合しないある種の「文化」を非合理なものとみなして社会から抹消したいという情念、怨念に近いものを感じる。


だが、現在の社会において、それらの「非合理」な存在にも思える「文化」が果たしている役割は、「セーフティネット」という意味でも、決して小さくない。
市場原理による競争が過酷であればあるほど、そこから振り落とされたり、「勝ち組」であってもそのなかで消耗してるような人が、それら「文化」が内包する、市場原理とは異なる価値観、力に触れて、ひとりの人間として生きる力を取り戻すということ、少なくともそうなるための猶予期間(「溜め」)を得るという事は、十分考えられることである。
それは、ある種の「文化」が、世の中の「ぜいたく品」であるからこそ出来るのだ。
そして、王侯貴族やブルジョワがいなくなった今(天皇制はあるけど)、そういう「ぜいたく品」を、人が生きるための装置のひとつとして社会の中で維持していくためには、行政の力が、やはり必要不可欠である。
関西には、たとえばサントリーみたいな「文化」に力を入れてる企業もあるにはあるが、やはり私企業ゆえの限界というものがあるのだ。


行政が、最低限、多様な文化の維持に助成していくということは(行政の論理に取り込まれることを拒む気持ちは、文化の側に無論根強いとはいえ)、橋下知事の言う「セーフティネットの維持」に、まったく相当するものである。
そして、市場原理のなかでの競争が激しければ激しいほど、こうした「文化」を(行政のみならず)われわれが守っていくこと、それによって多様な他人たちの生存の保障に努めていく必要性は、ますます増していると言うべきだと思う。