『ハイチ革命の世界史』

 

https://www.iwanami.co.jp/book/b629853.html

 

『黒人奴隷制の廃止は「人権宣言」からの論理必然的な帰結として自動的になされたのではない。一七九一年八月に始まるサン=ドマングの黒人奴隷自身による解放運動の展開が一大転機となった。黒人奴隷制の史上最初の廃止は、ほかならぬ支配と抑圧のもとにおかれた黒人奴隷たちを担い手とする一大民衆革命の所産として実現された。(v)』

 

 

『ハイチ革命は「権力」によって「実際にはなかったこと」とされ「沈黙」させられた、ということである。些細な出来事だったからではない。「沈黙」させ封印しなければならないほど重大だったのである。(vii~viii)』

 

 

『先駆的な黒人奴隷解放と独立という輝かしい歴史を持つにもかかわらず、ハイチは極度の貧困に喘いでいる、という表現は不的確である。むしろ、そのような先駆的な国であるが故に貧困化へと向かわされた、と言わなければならないであろう。当時の周辺世界は「世界初の黒人共和国」を歓迎しなかった。ハイチは、その先駆性ゆえに、苦難を強いられることになったのである。(p129~130)』

 

 

最新の研究動向や国際政治の動きも交えながら、広範な視点で、ハイチという特異的な国の視点から世界史を眼差して書かれている。書名の通りの内容だ。

元々、フランス革命期に、そのフランスから独立を勝ち取ったのだから、フランス植民地主義(現在まで続いている)との関わりが重要なのは当然だが、後半では米国との関わりの深さが強調される。

リンカーンがハイチを承認した理由は、自国の奴隷解放によって急増した「自由黒人」を海外に送り出す(追い出す)「黒人植民」という政策の入植先として期待したからだった。つまり、「自由黒人」が多くなると国情が不安定になって困るので、アフリカにリベリアという独立国を作らせて承認し(アフリカに)「送り返す」と同時に、ハイチにも入植させようとしたのである(結局、これはうまくいかなかったが)。

その後も米国は、(ラテンアメリカ全体に対してと同じく)ハイチを支配下に置き続けようとする。今世紀に入ると、ラテンアメリカの支配を米国とドイツが競い合うという構図になってくる。そのなかで、第一次大戦期(一九一五年)に米軍はハイチを占領し一九三四年まで軍政下に置く。その間に行なった事は、暴力的な産業化・収奪と、抵抗運動の凄まじい弾圧だった。軍事力や借款による経済的支配に加えて、「占領」による制度や人々の内面への破壊(ダメージ)を通して、米国はハイチの「貧困化」の主役を担ってきたと言えるだろう(パレスチナや沖縄のことを想起せずにはおれない)。

実際、この後も米国はハイチの軍事占領を繰り返しており、最近では二〇一〇年の数十万の死者を出した大地震の時が、それにあたる。

遡れば、フランスから独立を勝ち取った後のハイチの政体も、決して平和的だったり平等なものではなかった。それももちろん、過去の植民地支配と奴隷制、そして独立後も続いた帝国主義列強による再侵略の脅威の反映だと言えよう。そうした意味でも、ハイチの歴史と現在は、私たちの世界史の縮図なのだ。

最後に「ハイチ」という国名の由来だが、独立の時よりずっと昔、スペイン領だった時代に絶滅させられた先住民の言葉で「山の多いところ」という意味なのだそうである。史上初めて奴隷制の支配を打ち破り、独立を勝ち取った黒人やクレオールの人々は、自分たちとは無縁な、はるか昔に絶滅させられた民の言葉を国名としたのである。