『(見えない)欲望へ向けて』

 

僕は、この本の存在も、著者(2006年に、まだ30代で亡くなっている)のことも、ごく最近知った。僕が読んだのは文庫本だが、単行本は2006年頃に出たようだ。90年代終わりから書かれたいくつかの文章からなっているのだが、率直に言っておそろしくハイブロウである。僕はほとんど理解できてないと思う。

今は、これだけ難しい文章が、思想誌(『現代思想』など)に載ったり、本として広く読まれたりということもあまりないのではないかと思う。そういう意味で隔世の感さえある。ところが「あとがき」を読むと、この本の全体が元々は学位請求論文として書かれたとあって、二度驚いた。

第5章で、E・M・フォースターについて論じられる。ここを読んでいて、あることを思った。それは、今では「PC」(ポリティカル・コレクトネス)という言葉は、「正義」を小うるさく主張することのように言われるが、元来は、むしろ逆だったのだ。そんなこともすっかり忘れられている(僕も忘れている)のだ。

次のように書いてある。

 

『ローティを参照することで、フォースターの小説からも、明確な政治理論が引き出せる。リベラリズムとはアイロニーをたえず生産する機械であり、文学的な多義性は、そのままリベラル・ポリティクスという、あらゆる偏狭な主義主張の上に立つポリティクスの直接的な言明となる。いいかえれば小説は、けっして明晰な政治的決断を下さず、あらゆる教義の強制から超然として、永遠の交渉という中性的/中立的無菌空間を保持することによって、政治的に正しいもの(ポリティカル・コレクト)になる。小説というブルジョワ的ジャンルを賛美するローティは、教養としての文学教育という文化制度を支えている暗黙の前提を、これみよがしに口にしているともいえる。さあ皆さん、文学は偏ったものの見かたはいけないんだと教えてくれますね・・・・。(p160~161)』

 

 

つまり、「PC」(政治的正しさ)というのは元来、「あらゆる偏狭な主義主張」を超然と見下ろし、絶対的な正義など存在しないとする、取り澄ましたような態度のことを指すものだったのだ。そうした態度(アイロニー)が、リベラリズムと呼ばれ、当時(90年代後半前後)流行しはじめていたクィア批評では、それは批判の対象となったのである。

ところが、本書の著者は、その最先鋭のクィア批評(ここではベルサーニ)をも、次のように切ってしまう。

 

 

『しかしフォースターを通じてみえてくることは、このようないわば単独的で自閉的な欲動の情念が、植民地の他者を性的に搾取することと矛盾しないばかりか、そのような他者をリベラルな個人の原型に据えることとも矛盾しないという事態だ。(中略)抑圧のメカニズムと歴史的な契機を退けることで、いつしか本質主義的な主体が呼び戻されているのだ。われわれが見ているのは、考えうるもっともラディカルなクィア批評が、本質主義を振り切るどころかそれに寄り添っていること、もっともリベラルな友愛から遠い単独者の思想が、しかし「個」を核としている点ではリベラリズムの正道とつながっているという事態である。(p181~182)』

 

 

いやー、これはすごい。この章の文章の全体が(そして、もちろん本書の全体が)すごくて、かっこいいのだが、そのかっこよさがよく出ている箇所だ。

まるで月影兵庫の「上段霞切り」のようにかっこいいのである。