高秉權さんの講演の感想

8月1日に同志社大学で、『黙々』の著者高秉權(コ・ビョングォン)さんを招いての会があり、案内をもらったので行ってきた。

https://arisan-2.hatenadiary.org/archive/2023/12/08

平日だったが、多数の参加者があった。講演やコメント(渡辺琢さん、北川真也さん)だけでなく、会場からの発言も内容の濃いもので、良い会になっていたと思う(通訳、手話通訳の方々はお疲れさまでした)。

高さんは、本を読んで想像してた通りの感じの人だった。始まる前、Tシャツを着た小柄な男性が前の方にずっと立っていると思ったら、それが高さんだった。

 

講演の内容で、特に印象深かったのは、後半の部分だ。そこで高さんは、今の社会が非障害者(「健常者」)をモデルにした「平均的人間」像を前提として成り立っており、その虚構の像にそぐわないものを、あるべきではない存在として無視したり排除している傾向を強く持っていること、しかもその傾向が強まりつつあることを批判している。

配布されたレジュメ(影本剛翻訳)から引用する。

 

『わたしがノドゥル夜学で学んだ倫理はこれとまったく異なるものです。誰かの言葉を聞き取りたいなら、他の誰とも異なるまさにその人に「注意を向けなければ」なりません。その人の発声と身振りを理解しなくてはならず、さらにはその人の日常、活動、欲望、人生、困りごとに注意を向けなければなりません。多数や平均ではなく固有の差異、特異性(singularity)に注目しなければなりません。「その人の言葉」を待つ人だけが「その人の言葉」を聞くことができます。』

 

このように述べて、高さんは、現在の社会において障害者の声が『関心のもたれない声、期待されない声、喜ばれない声』とされていることを批判し、そうした「あえて聞こうとしない」社会の『防音壁』を揺るがせる必要を強調する。

個々の特異性を見ようと(聞こうと)せず、あえて『防音壁』の内に閉じこもろうとする社会、その為に他者の必死の声もあえて排除するという態度への苛立ちや怒り。それは、講演でも著書でも述べられているように、高さん自身の体験と反省から出てくる真摯な感情であろう。

僕は、この高さんの「倫理」に強く同意するのだが、少し違うことも言っておきたい。それは、私たちが「注意を向け」るべき対象である「声」とは、必ずしも他者の声に限らないだろうということだ。つまり、私自身の身体の特異的な「声」にもまた、私は耳を傾ける必要がある。そして、そのことが大変難しくもある、ということだ。

もちろん、そのことは高さんもよく分かっておられるだろうが。

 

ところで、この社会の『防音壁』を揺るがす為の手がかりとして、講演の最後で紹介されているのが、1995年に障害者差別に対する抗議の焼身自殺を遂げたチェ・ジョンファンという人についての話である。この出来事は、韓国の障害者運動の流れを変えるほどの大きな衝撃を与えたという。

その最期の時に遺言を聞き取ったユヒという人がいる。この人は故人と同じく露店を営む貧しい障害者だった。チェ・ジョンファンと同じ境遇で、貧しさと差別と闘ってきた人である。この人が聞き取ったのは「復讐してくれ」という、声にならないメッセージであったという。それは言葉ではなく、最後はアイコンタクトを交えながら、ユヒはこの遺言を確かに聞き取ったのである。

僕は自分の体験からも、こういう事があり得るだろうと想像するのだが、同時に、その「言葉」はユヒ自身の「内なる声」でもあっただろうとも思う。そのことは、ユヒがチェ・ジョンファンの遺言を聞き取ったという事実と矛盾しない。つまり、それでよいのだ。

ただ同時に、それが他ならぬユヒ自身の特異的な声であったということ(可能性)も、常に自覚しておくべきではないかというのが、僕の言いたいことである。