文化と「必死さ」

『kmizusawaの日記』さん経由で。

橋下知事が芸術論「残る文化は必死さが違う」http://www.asahi.com/politics/update/0726/OSK200807260064.html

最後は「残る文化と残らない文化の違いは、やっている人の必死さ。消えそうだからといって、行政が特定の何かに金をぶち込むべきじゃない。やっている人間がまず努力すべきだ」との持論を展開した橋下知事


まあなんというか、文化の場合は、いいものを作ろうと思って「必死」でやってるが故に儲からない、赤字になる、ということがあるわけでしょう。
「必死」でやってることを偉い、残る価値があると思うんだったら、「必死」でやってるのに赤字が出たりして苦しくなってる「文化」を助けようとするのが、筋の通った文化行政のあり方で、そのことに「必死」になるべきだろう。
そういう行政の努力や、それこそ「必死」さがなかったら、文化というものは、決して残っていかないものだと思う。


大阪の場合は、とくに近代以後は、そういう文化を守ろうという「必死」さが、行政にも、世間全体にも希薄だったと思う。それがやはり、橋下知事の文化に対する考え方が広く支持される土壌にもなってるのだろう。
下流の改革は、「採算がとれるようにする」という面では、現場に意識改革のようなものをもたらすかもしれないけど、「文化を銭感情の犠牲にする」というのは、むしろこれまでの大阪がずっと実践してきた方向なのだ。
「文化」に関して求められてる一番大事なものは、そういう「努力」ではなくて、むしろそれと相反するような知事・行政・一般府民の意識改革・「努力」だと思う。