『国道3号線』

 

この本では、谷川雁のことが多く書かれている。大正行動隊や退職者同盟など、彼が関与した運動のあり方についても随分興味深いのだが、読んでいて最も印象に残るのは、著者の文章以上に、引用された谷川自身の、次のようなユーモラスなほど力の入った言葉である。

 

 

『「彼らはどこからも援助を受ける見込みはない遊撃隊として、大衆の沈黙を内的に破壊し、知識人の翻訳法を拒否しなければならぬ。すなわち大衆に向っては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆であるところの偽善の道をつらぬく工作者のしかばねの上に萌えるものを、それだけを私は支持する。そして今日、連帯を求めて孤立を恐れないメディアたちの会話があるならば、それこそ明日のために死ぬ言葉であろう。」(p150 谷川雁「工作者の死体に萌えるもの」からの引用)』

 

 

ちょっとよく分からないところもあるが、とにかく意気込みだけは伝わってくる。「連帯を求めて孤立を恐れず」というあまりに有名な(「お前はもう死んでいる」ぐらいに)決め台詞よりも、「偽善の道をつらぬく工作者のしかばねの上に」というくだりなどに僕などは「萌える」のだが。

それはともかく、この「意気込みだけは伝わってくる」というのは、村田英雄の歌の歌詞と同じだ。実際、九州の奥深い民衆史を素描的に掘り下げたとも言える本書において、不思議にも欠け落ちている固有名詞を一つ上げるとすれば、それは村田英雄ではないだろうか。

https://www.youtube.com/watch?v=2JdMHj6s-mU

 

 

谷川雁に関しては、小野十三郎が谷川と黒田喜夫を比較して論じた文章が引かれているが、僕も以前同じ文章を読んで強い印象を受け、ここに記事を書いたことがあった。

https://arisan-2.hatenadiary.org/entry/20141230/p1

あれは随分マイナーな出処の文章で知ってる人も少ないだろうと思ってたのだが、研究者の人はちゃんと目を通しているのだと感心した。僕の読み方は、著者の森さんとはだいぶ違うのだが。

それから、谷川と石牟礼道子との、ずいぶん力の入った論争というか、言葉の応酬も紹介されていて興味深かった。これについては詳述しないが、僕は(これも以前に書いたが)、石牟礼道子という人は、近代日本の民衆に対しても、前近代に対しても、必ずしも肯定的には見ていなかったと思っている。

本書では、石牟礼の『西南役伝説』のはじめの部分が何度か引用されて論じられており、国家に回収されない民衆の姿を肯定的に見ていた石牟礼が論じられている。それは、僕には読みとれていなかった面で、読んでいてたいへん勉強になったが、同時に石牟礼は、戦争という国家の行為に加担することで利益を確保する民衆の狡賢さもちゃんと書いてたと思う。もちろん、著者の森さんも、それは把握した上で、そういう狡さも含めて民衆の潜勢力のようなものを肯定しようとしているのであるが。

ただ、石牟礼が最も重視したのは、近世(江戸時代)の民衆ではなく、「島原の乱」の民衆、近代をあらかじめ拒否し打倒しようとした(いわば)前近世の民衆の像だったのではないかと思う。その点で、石牟礼に対する谷川の批判とは、すれ違っていたのではないか。「日本の民衆は、あなたが思い描くような理想的なものではありませんよ」と谷川が言った時、そんなことは百も承知で、石牟礼「狐」は真っ赤な舌を出していたような気がするのだ。その同じ舌を、皇后に対しても出していたのか、それとも騙したつもりが尻尾を掴まれたのか(向うの狐の方が上手だったのか)、知る由もないが。

 

 

著者の森さんの歴史、あるいは民衆(大衆)に対する考え方が最もよく示されてるのは、半ば神話上の存在である古代の安曇一族と、その始祖とされる「磯良」なる人物について書かれたパートだろう。少し引いておく。

 

 

『磯良の存在は、私たち民衆の姿が投影された大変示唆的な象徴として、考えることができるかもしれない。安曇一族が王権に取り込まれようとも、打撃を喰らおうとも、それでもなお安曇一族は生き続け、その伝承は現在もなお続いている。

 古代において若松半島をはじめとした北部九州に住まう人々は、国家に蹂躙されることもあれば、国家を下支えすることもあった。(p219)』

 

 

『磯良が極めて神話的な存在でありながらも、いっぽうで安曇一族の先祖として、現実世界の象徴的な位相でのモデルとして考察対象になりうるとも考えられる。ときに国家に抗い、ときに国家に利用され、生と死のあわいに、しなやかにその生き方を表現していた存在だ。このしなやかさのなかに安曇一族だけでなく、私たちも私たち自身を見出すことができるのではないか。(p220)』

 

 

「おわりに」の章は、ずいぶん思い切って思弁的だが、とりわけベンヤミンの「新しい天使」を引きながら語られた冒頭の部分には、心を打たれるものがあった。

著者はここで、いわば「死者」の視点に立って語っていると思う。これは、なかなか出来ることではない。

 

『私たちが存在しない未来は、私たちが存在していたことが前提とされる。つまり私たちがかつて存在したことと、私たちが潜在的に存在することとが共に語られることで、未来が語られる。(p225)』

 

 

『そう、未来とは、過去と現在がなければ潜在的ではないのだ。私たちは現実に生き、そして死ぬ。死んだとしても瓦礫となり、未来の行く末を方向づけることができる。過去は現在に生き、未来に生きるのだ。だから過去は死なない。価値は今ここ、そして過去の出来事を知ることからしか生まれない。(p226)』