最近の事件について、少しまとめる

きのうのエントリーでは、八王子の事件に関して、若い女性のような、犯人自身から見て「弱者」とみなされる相手に選択的に暴力が向けられたのではないか、ということを書いた。
読んだ人の多くは、では秋葉原の事件の場合はどうなるのだ、と思ったことだろう。


じっさい、秋葉原での無差別殺害事件については、事件の報道を聞いた直後から、なにか自分には理解不能な部分があった。
明らかに「弱い対象」「攻撃してもかまわない相手」と見なされるような存在ばかりでなく、男性、しかも警察官までも凶行の対象となったこと、そのエネルギーのようなものが、ぼくの想像を越えていた。
今思っているのは、これは単純に「武器」に由来するのかもしれない、ということである。秋葉原の事件では、「対人用」と称されるような、戦闘行為にも用いられるようなナイフが使用されたという。また、トラックをレンタルして、歩行者天国に突っ込むということも、大掛かりな「武器」の使用に当たるだろう。
強力な武器の使用が大規模な無差別殺人を可能にするというだけではなく、そのような武器を手にすることが、(自己)破壊的な衝動に駆られた人の、攻撃性の質、行動内容までも変えて(強めて)しまう、ということがあるのかもしれない。
これは、「本来は善良な人が、テクノロジーによって悪く変質する」といった意味ではない。人間は、「武器」によって平然と大量殺人を犯すようになるほど可変的であるという本質を持つ、というようなことである。



それに対して、率直に言うと、八王子の事件については、そういう理解不能な部分はあまり感じなかった。
「誰でもいい」(これが本人の正確な表現かどうか知らないが)から殺そうというような心理に自分がなったと仮定して想像してみると、自分が(それが社会に刷り込まれた結果かどうかはともかく)「弱者」と思える相手に選択的に凶刃を向けるということは、ほとんど「自然」だとさえ思える。
「誰でもいい」と思うということは、つまりその(実際は人工的かもしれない)「自然」さに流れてしまうほどに無力・無気力な状態を指しているわけだが、この「無力」さは、非常に社会的なもので、その社会全体が持つ暴力性(「攻撃してよい弱者が居ること、そしてそれは誰かということ」)に染め上げられているのだ。
この種の事件に、それを契機にして社会構造への批判が行われる要素が含まれているとすれば、その主たるものは、そうした点にこそあると思う。


この種の(一般に「現代的」という風に呼ばれたり思われたりしている凶悪で衝動的な)事件は、実際問題、現在の日本の社会構造のあり方に起因して、それが多発しているとは思われない。少なくとも、そう考える根拠は薄いはずだ。
そして、そうした客観的な条件は別にしても、「人が人を殺す」というような出来事には、その理由を「社会構造」のみに還元できない、また還元すべきではない要素があると思う。そういうことは、以前にも触れた。
その意味でも、こうした出来事を「社会構造」の問題に結びつけて論じるということを、ぼくは好まない。


しかし、犯行(という出来事)そのものとは別に、そうした犯行が起きるか起きないかに関わらず、存在している社会構造の歪みというもの、したがって、人が犯行を起こした場合には犯行の中に、また人が犯行を起こさなかった場合にはその日常の行動の中に、それぞれ垣間見られるような、何らかの特殊な性質からうかがわれる社会の歪みの効果というものには、常に批判的な目を向ける必要があるだろう。
その意味で、たとえば八王子の事件の犯行にうかがわれるような、「無力」さというもの、あるいは「自然」さというものの、社会的な性格、歴史的な条件付け、そういうものには関心を持つ。
まして、私は犯罪を犯してはいないが、そのような「無力」さや「自然」さの性質は、たしかに身に覚えがあるのだ。


繰り返しになるが、無差別的な凶行を行う人は、社会構造とは関係なく、たしかに「殺人者」という固有のものだろう。その人の行った行為(悪)は、その人自身から絶対に切り離せないものとして残り続けると思う。「社会が悪い」という言い方によって、そのことを毀損することは、むしろ暴力だ。
だが、その人がふるう「無差別的な」(はずの)暴力が向けられる対象が誰であるかということは、むしろ社会的な条件のなかで決定されるのではないか。
その暴力が、無意識に「弱い存在」「攻撃することが、より許容されている存在」に向けられるのだとしたら、そのことの(対象選択の)責任は、むしろ社会の側にあるはずである。
したがって、これらの事件の(悲惨な)固有性とは切り離して、社会の責任、被害者は言うに及ばず、加害者をもそこに追いやったと(部分的には)言えるかもしれない社会全体の責任を問い、批判・変革していくべき場は、そこにこそあると思うのだ。


それはまず、ぼくにとっては、この内なる「無力」さや、それと結びついた攻撃衝動、欲望にまつわる「自然」さの性質を、そのバイアスの社会的・政治的な質と由来を、明らかにしていく、ということになるだろう。
そしてそれを、他者の問題につなげていく必要がある。



銃後の欲望

ところで、これらの事件の加害者(犯人)たちが体現したこの社会の持つ暴力性のあり方を特徴付けるもののひとつは、まさにt-kawaseさんが書かれた「無理心中」ということであり、だからこそ「無理心中」に「世間」が同情するのと同様に、今回のような「無力」な凶行を犯した人の「意を忖度する」かのような人々の言動には、欺瞞的なものを感じるのである。
それは、そうした言動が、自分たち自身が行使してきた、また行使しつつある(加害者にも、無論より一層被害者にも)暴力性の隠蔽だと思えるからだ。
「弱者が弱者を殺す」社会は、必ずそこに追い込んでいる人間が居て、構造があって成立する。だが重要なのは、その構造(暴力)に対して、語っている私はどの位置にあるか、ということである。それが曖昧にされるとき、「暴力の構造」は密かに維持・強化される。
このような人たちは、加害者の「意を忖度する」ような(暴力の構造の外部に立つかのような)物言いをすることによって、社会を媒介として自分が行使しつつある間接的暴力(他人犯行や死に追い込むこと)と、今後行使するかもしれない直接的暴力(個人的ばかりでなく、集団的でもありうる)に対する言い訳をしているのである。
つまり、「私が行使してきた、また今後も行使するかもしれない暴力には(にも)、やむにやまれぬ事情があるのだ」というのが、これらの人たちが伝えたい本音なのだ。
ここでは、犯行を犯した人々の生の固有性は(まして、殺された人たちのそれはもちろんのこと)、一見擁護されているかに見えて、実際には手段化され、抹消されてしまっている。
そしてそのようにして、この人たちは、自らが批判すると称する「社会構造」の維持に加担し続けるのだ。


さらに、そればかりではない。
暴力をふるう他人を、ある仕方で(精神的に)支持・擁護するかのような言説の背後に隠されているのは、いわばそれらの人間を、自分に代わって暴力の現場(前線)に差し向け、人間としての固有性を否定した「機械」のような存在として、目障りな「敵」を消去させたいという、過剰で陰湿な攻撃性ではないだろうか。
ぼくはそうした「欲望」を、さきの札幌でのデモ弾圧の映像に付された、警察の側を応援するようなコメントにも感じた。
そうしたコメントをする人たちは、「人間」としての警察官を、決して認めないだろう。その人たちにとっては、警察官は自分の代わりに(自分は傷つくことなく)攻撃衝動を充たしてくれる、いわば「内戦ゲーム」の駒のような存在なのだ。
おそらく、この同じ欲望が、犯罪加害者による(弱者への)凶行を英雄視して是認し、同時に、加害者となった人々の刑死による血を渇望するのである。
それこそが、もっとも邪悪で危険な、「銃後の欲望」と言えるのではないか。