『言葉を撮る』

言葉を撮る―デリダ/映画/自伝

言葉を撮る―デリダ/映画/自伝


本書と不可分の関わりを持つ映画『デリダ、異境から』(この本には、『デリダ 異境から』のDVDが付されている)の主人公である「ジャック・デリダ」について、デリダ自身が、このように書いている箇所がある。

そのことについて彼はけっして不平を言わない、彼はみずから、「自分の場」であるらしい、あの領土なき場を、立地なき立場を描く、悲壮感に捕らわれておののくことなく、捕らわれたとしてもごくわずかに。それが彼の住居である。それを語るのに彼は一切のリリスムを追放したらしい、ノマディズム、彷徨ないし追放のパトスないしトポスも、約束の地の、失われて再び見出されるルーツの、回帰と大いなる再結集のレトリックと同様に。(p152〜153)「一人の盲者に関する複数の手紙=文字」


ここで、ユダヤ人でもあるデリダが、「自分の場」を語るにあたって、シオニズムにつながるようなものと同様に、いわばディアスポラ的な「リリスム」をも斥けようとしているらしいことが分かる。
だが、デリダがそのようにして語る、「自分の場」は、やはりユダヤ的、というよりも、ユダヤ人である彼自身の出自に深く関わる具体的な形象をもっている。
つまり、「マラーノ」だ。
無論、映画のなかでもデリダは、それが「普遍的なマラーノ」であるといったことを強調しているが、だからこそ、そもそもユダヤ人である彼が「マラーノ」というユダヤの伝統に強烈な執着を示したことが際立つのだ。


彼は、「マラーノ」というユダヤ的なものを、自分にとって同一的なもの(ルーツ)として見出したわけでも、自分の出自と無縁なものとして見出したわけでもないだろう。そうではなく、そこに彼は、自分の内なる他者への、したがって普遍性への、ほとんど唯一の窓を見出していたのだと思う。
「マラーノ」は、ユダヤ人でもあったデリダが見出した、普遍的な世界(他者)に至るための、わずかに開いた窓だった。
その「窓」は、より具体的には、以下のような姿で、世界のあちこちに開いているのではないかと思う。


スペインのトレドの、旧ユダヤ人街区にある家の中庭で、デリダが「マラーノ」のことについて語る場面が撮影された。
この時期、撮影は、デリダと、エジプト生まれの詩人でもある、この映画の監督サファー・ファティたち撮影チームの間の緊張関係により、困難を極めていたという。
その中庭の光景について、ファティは、このように書く。

中庭は円形で、とても小さな家々に囲まれており、家の窓は、壁の密閉性の背後にある不可視性を強調するばかりだった。なぜか分からないが、私はそれを、非常に異なる複数の街で見たことがある。例えばカイロの旧コプト人街、プラハカフカが住んでいた通り、抑圧された少数民族が、常に異常なまでに小さな家とともに、その奥に身を隠していた街々だ。見窄らしくとても地面に近い。あたかも建物が人間たちからあらゆる滞在の外観を奪っているかのように、あたかも人間たちが既に、消失し消滅しつつあるかのように。隠遁の場所ではない。外部を路上に投げ出した場所だ。内部への逃亡の諸形象である。(p216)「すべての前線で回す」


これはたしかに、世界中に散在していて、誰でも見る気になれば、目に入ることのある光景だろう。
現にぼくも、何度か、この「中庭」の光景を見たことがある。
その家々(住居)は、語らないことによって、秘密を抱いて一見内へと閉ざすことによって、いわば夜を通して、世界へと、他者へと開いているのだろう。


ファティによれば、デリダは「マラーノ」の存在を『秘密の文化の何ものかを物語るがゆえに』(p219)好きだと言っていたという。
この本と、この映画で、デリダが語っている、もっとも重要なことのひとつは、「秘密」を尊ぶ、ということである。