謝罪の偽装

最近、ウナギだの牛肉だの、企業による「偽装」をはじめとした不祥事がさかんに報道され、その都度「謝罪」のあり方が話題にされる。
テレビには、「世間の人に伝わる謝罪の仕方」をレクチャーする専門家みたいな人も出てきてるが、それを見てると「謝罪まで偽装するのか」という気持ちになる。


謝罪するからには、企業が犯した不祥事によって、実際になんらかの被害を受けた人がいて、その人に対して謝罪するということが筋だろう。
ところが、語られてるのは「世間一般に伝わるにはどうしたらいいか」ということである。いったい、何を伝えるということだろう?
世間一般に対して謝る必要はないのであって、被害の当事者に謝るのが筋なのだ。ところが、「世間一般に納得してもらう」という、元来「謝罪」ということとは意味合いが違うはずのことだけが、クローズアップされている。
「被害の当事者」というのが、どこかに消えてしまってるのである。


「消費者」という一般的なものに被害を与えた(だました)から、その一般的なものに対して謝ってる、ということであろうか?
だが、被害を与えた(与える可能性のあった)「消費者」と、「消費者一般に納得してもらう」というときの「消費者」とは、本当は別のものではないか?
世間に納得してもらうような形式を整えて謝罪することで、消費者の気持ちを引き止めるということは、企業としては必要なことだろう。
しかし、(人が人に)「謝罪する」という行為の本当の意義は、それとは別のところにあるはずである。
「謝罪」させることで、漁夫の利のように表面的な満足を得ようとする、「世間」のわれわれの非当事者的な欲望が、その大事な差異をどんどん見えにくくしていってるように思う。