薬害肝炎問題と国民の責任

このところ何度も書いてきたことだが、あえてもう一度書く。


先日、薬害肝炎の原告の人たちの姿をとらえたドキュメンタリー番組(日本テレビ系)を見たことを、ここにも書いた。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20071224/p2


そこで中心的に紹介されていた原告の女性は、地裁での判決のとき、フィブリノゲン以外の薬剤による感染だったという理由から、全体としては国に補償を命じる内容の判決(勝訴)でありながら、その枠からはずされるという「線引き」の対象になる経験をしたそうである。
今回の行政・政府との交渉の過程で、原告の人たちが一貫して「線引き」を拒む態度をとり続けたことの背景には、この人たち自身が「線引き」によって引き裂かれるという辛い体験をしてきたことがあると思う。
そもそも、原告の人たちが拒んだ「線引き」とは、直接には、全国の原告団のなかにおいて感染時期等による「線引き」を認めないという意味だったはずだが、そこには同時に、それを認めてしまえば、すでに訴訟を起こしている自分たち以外の感染者たちのなかにも、今後「線引き」によって救済されないという不幸な体験をする人が出てくるであろうという、未知の他人の苦痛に対する想像力、そして「責任」の気持ちがあったはずである。
つまりこの人たちは、このとき自分たちが当事者であることをとおして、他人への「責任」を負うことになったわけである。


自分自身が被害を受け、苦痛を受けることになった人たちが、そのことによって誰よりも「他者への責任」にさらされることとなり、国や世間という形の定まらないものの無関心と圧力に対抗して、いわば他者を守るために、「頑強」であることを強いられる。
自分自身の無関心と無為を棚に上げて言えば、これほど理不尽きわまることはないと思うが、さらに理不尽なのは、このようにして強いられる態度の「頑強さ」そのものが、「からごころ」の如く見なされて、制度の内部でぬくぬくと生きている人間から揶揄の対象となるという事実である。
別に2チャンネラーやネット右翼のことではなく、リベラルを自認するような人のなかに、この種の揶揄の物言いを目にするのである。
こうした物言いは、「原告団には特定の思想がある」などと政府・与党関係者に囁いて「与党側の譲歩を牽制」しようとしたという厚労省幹部のそれと、何ら変わるところのない恥知らずなものであると思う。要するに、自分の権益を守ることしか知らぬ者の言い草だ。
「切捨て」による被害者たちを生み出してはならないという他者への責任の気持ちから、国の切り崩しに対して頑強に抵抗しようとしてきた原告たちの態度を揶揄し、国家の責任の明確化を不要のものと言い募ろうとする人たちは、そのことによって自分自身の他者に対する責任、国民(有権者)としての責任から逃げているのだ。それは、あくまで自分が国家の内部の安全な位置に留まり続けたいからであろう。


肝炎被害では、対処が遅れて全国に数百万人ともいわれる膨大な被害者*1を出した責任を問われているのは国であり、またこの問題をここまで放置してきたのも国の行政であろう。
新しく作られる法律の前文に「国の責任」という文言を明記するなどということは、国が果たすべき責任の第一歩であって、法にもとづいた救済の実行は言うに及ばず、行政にどのような問題点があってこのような甚大な被害が人々に及んだのかを明らかにし、こうした事が再び起きないためにどのような改革を行っていくかを説明し実行することによってこそ、「国の責任」は果たされたことになるはずである。
そして、ここが肝心なところだが、このように「国の責任」を追及し、状況を変えていく責任は、もとより被害の当事者である今回の訴訟の原告たちにだけあるはずはない。
それはむしろ、このような「国の落ち度による被害」の当事者たちが生じることを許した、われわれ当事者ならざる国民・有権者全体の責任であると言うべきだろう。われわれが「有権者」であり「主権者」であるとは、そういうことである。


われわれは有権者、主権者として、自らが属する国家の過ちによって害を受け、また法や制度による保護の「外」に不当にはじき出された人たち(国民であれ、それ以外の人たちであれ)、すなわち「他者」に対して、国家にそれを償わせ、自国のあり方を害のより少ないものに変更せしめていく義務があるのだ。
これがつまり、他者に対する「国民の責任」というものであり、この意味での「責任」という言葉は、「他者に対する責任」以外を意味するものではありえない*2
今回の訴訟の原告団の人たちが、訴訟と国家との交渉の過程において直面し、担わざるを得なかった責任とは、まさにこの意味の「責任」であったと思う。


人があくまでその人として生きようとするなら、自分が属する集団や社会と、まさに自分がメンバーとしてそこに属するがゆえに、その「外」に追いやられた人たちのために対峙し(引き受け)、必要なら対決せねばならない場合がある。
その集団や社会が、国家のような巨大な機構であるとき、また社会全体のような巨大で得体の知れないものであるとき、その責任の遂行は、「頑強」さの外見なしにはなしとげられない苛酷なものであるだろう。
他者のみが要求しうるこの「責任」の過酷さを、これまで原告の人々は、その身に背負い続けてきたのだろう。


いまや、このバトンは、われわれ当事者でないものが、受け継ぐべき時である。
ぼくたちが、あくまで自分の人生を生きようとするのなら。

*1:上記記事によれば、厚労省幹部はその補償に必要な金額を10兆円と算定したと「嘘をついた」そうだが、あながち根拠のない数字とも言えまい。

*2:それは、もっとも根本的な責任であり「国家にたいする責任(義務)」よりも優先するはずだ。