腹の立つ論調

さっき「ニュース23」を見てたら、例の竹島の問題をめぐる抗議行動で、日本大使館前での夜の集会には、保守系団体だけでなく、牛肉輸入問題に端を発した反李明博デモの中心になった若者たちも参加してる、ということを言ってた。
これは、系列の毎日新聞の記事を踏襲してるようだ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080715-00000028-mai-kr


番組では、「あの若者グループも」というふうに画面隅に文字が出て、いかにも一部の反社会的な過激な連中だけが反政権デモをやっていて、今度はこの問題に飛びついて過激な反日デモなどを展開しかねない、という論調だった。
キャスターたちは、「反日デモに発展するのが心配ですね」と、台風の動向を心配するみたいにうなづきあっていた。


今更だが、見ていて腹が立った。
竹島問題」の韓国での騒がれ方は、それ自体は愚かな官製ナショナリズムの議論だと思うけど、背景にはアジアとの和解を拒み続けている日本という国の現在のあり方がある。
それを重視してるから、アジアの若い人たちは、それに対して怒りの声をあげるわけで、それは真っ当なこと、われわれにとっても望ましいことだ。


李明博のデモは、現在も多くの市民の参加によって続いてるわけだけど、その抗議にしても、日本に対する抗議にしても、基本的には民衆の権力に対する怒りということであって、これは国境で区切れる問題じゃない。
われわれも戦うべき相手に、あの国の人たちが、一緒にというか、彼らなりの立場で戦っているわけだ。


反日デモに発展するのが心配ですね」と語るとき、「リベラル的」と見なされるような日本の良識的なマスコミの人は、どういう位置に立ってそれを言ってるのか?
かつて、韓国が軍事独裁政権と言われてた時代、それに抵抗する韓国の民主化運動を、日本の左派の知識人の多くは支援したはずだ。そして、日本のマスコミの多くも、その時代には、ある程度それに歩調を合わせてたはずである。
実態がどのぐらいだったか分からないが、それでも今よりはましだったろう。
それから数十年が経ち、日本の「進歩的な」マスコミの位置は、「民主的」という意味では、当時よりはるかに後退したと思う。


だいたい、韓国の民主化運動というのは、日本の植民地だった時代に権力を持ってた連中の支配から、いかに脱するかということを目的に行われてきたのである。
つまり、日本の帝国主義植民地主義の残滓との戦いということで、日本の「進歩的」なマスコミが「民主的」とか「人権」というふうなことを掲げるなら、その戦いに対して中立的でいられるはずがないではないか。
自分たちの力で、自国の中のこの残滓を一掃したのならともかく、アメリカの助力のもとに今やもっともその支配力を強大にしつつあるこの「非民主的」なものの残滓と自分たちも戦うために、韓国のこの民主化運動を、自分たち自身の戦いとして支援するのが、唯一民主的な報道というものだろう。


これらの人たちが、それでも海外の出来事、日本国内の出来事について、「民主化」や「人権」といった言葉を強調することは、それでも無論尊いことだとは思う。
そこに価値を見出すほかないほどに、現実は無残なのだから。
だが、そうした言葉が真に意味と力を持つためには、自分たち自身が居る現実、自分たちの戦いの場というものに、強く自覚的である必要がある。
「非民主的」な日常に安住していて、民主化という価値を真に提示することは出来ない。


だがこの言葉は、もちろんぼく自身にも帰ってくる。
ぼくもまた、自分の中の「民衆(他者)」を抑圧しながら生きているのではないか。