ユダヤ的なもの

小岸昭著『離散するユダヤ人』(岩波新書)という本のことを、先日も少し書いたが、その続き。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060914/p1


たいへん面白い本である。
著者の「旅」を通して、ユダヤ人の離散の歴史がよくわかるし、「自己自身の内部へ収縮・撤退した」神、というユダヤ神秘主義のたいへん魅力的な中心概念について、くわしく知ることもできる。
また、旅の先々で著者がたくさんの出会いを経験し、ゆたかな体験を重ねていく姿は、その優れたフィールドワーカー的な資質をよく表わしているのだと思う。
だが、著者の書いていることに、欠けている視点があるのではないか、とも感じた。
それは、つぎのようなことである。

文字通り流謫を生き、その中に知の刺激を見出そうとしていたマイモニデスにとって、流謫とはまさに自由な精神生活を意味していた。彼は医師として、見せかけの改宗を選択していたユダヤ人の心の治療にあたっていた経験から、イスラムへの改宗か国外追放かの二者択一を迫られたユダヤ人に対して、故国にとどまるよりは信仰の道を選ぶよう助言していた。したがって、つぎのように語るマイモニデスは、信仰が最高の精神療法であることを、知っていたのである。
「たとえ危険に陥るとしても、強制を逃れ、昼も夜も彷徨え。世界は大きくて広いのだ。」(p69)


離散の地のユダヤ人にとって、強制改宗か国外追放かの二者択一を突きつけられることは、キリスト教国に限った話ではなかったらしい。
ここでは、信仰を貫いて流浪の生を選ぶか、それまで生活してきた土地に留まって「見せかけの改宗」の生を選ぶかが、問題になっている。
だが歴史のなかで、「見せかけの」生が、精神的な不自由や破壊と引き換えに、かけがえのない普遍性を見出す場になったということも、また事実だろう。
デリダ、異境から』で、デリダが「マラーノ」の歴史に託して語っていたのも、そのことだったと思う。
全体主義とは、秘密の破壊である」とデリダは言っていた。「見せかけ」の価値、つまり「秘密」というものの普遍的な価値を認めない「正当性」の思想のようなものも、全体主義の一形式だといえる。
この普遍性は、砂漠の普遍性だが、砂漠を流浪する「セファルディ」の光にくまなくさらされた生よりも、屋根裏部屋や地下室の闇のなかで息をひそめる「マラーノ」の生の方が、この普遍性を体現するということもありえる。
現在イスラエルがとりつかれているような「同一性の暴力」は、この普遍性によってこそ解除しうるのではないか。

ユダヤ人が国を追われるなら、ディアスポラに生きるための新しい枠組みを作ればよい、またローマ人が神殿を破壊するのであれば、口伝律法「ミシュナ」を離散の地におけるユダヤ教の新しい神殿にすればよい、と考えたラビ・ヨハナン・ベン・ザッカイの思想が、ここに実を結んでゆくことになる。抵抗のシンボル「マサダ」とは対照的な、生き残りを賭けた戦いのシンボル「ヤブネ」は、こうして神と人間の不滅なる「塩の契約」を新たな法あるいは協約に仕立て、離散の地に送り出す基地となったのである。(p123)


しかし、「マサダ」をシンボルとする抵抗の思想が、結局新たな占拠と追放をもたらすものだったように、「ヤブネ」を「基地」とする離散の思想、つまりユダヤ神秘主義の系譜も、やはり他者を否定し、排除し、追放する暴力の思想に転化する可能性を、もともと秘めていたのではないかと思う。
拠点を持つ抵抗の思想(マサダ)だけでなく、精神的な「基地」を拠り所とする離散と流浪の思想にも、やはり警戒が必要なのだ。移動や流動性は、必ずしも反動性の回避を保証しない。
区分線はそこにはなく、「秘密」を認める精神と、すべてを光の下にもたらそうとする「正当性」のイデオロギーとの間にあるのだ。
ユダヤ的なものがはらむ真の普遍性は、前者のうちにこそあるだろう。
「神秘」ではなく、ささやかな「秘密」。孤高さや同一的な共同性のなかにではなく、隣人との関係や距離のなかに隠されているもの。