「せいとうせい」について

先日、釜ヶ崎で起きた暴動について、いくつかエントリーを書いたなかで、「正当化」とか「正当性」ということについて考えた。
それは、おおむね、「相手にこういうことをされてるのだから、こういうふうに対抗するのは正当である」というような、いわばエコノミー的な意味においてだったと思う。
ところで、それらの文を書きながら、気づいていたけど、パスした部分があった。


それは、「せいとう(性)」という場合、「正当」という漢字と同時に、「正統(性)」という語も頭に浮かんでいて、どうも両者を混同して考えてる節がある、ということである。
「正統性」ということを考えるとき、そこには、たしかに(「正当」とは違って)エコノミー的な(交換、というのか)要素はあまりないような気がする。
この語について、非常に強く印象に残っているのは、サルトルの『ユダヤ人』のなかの一節だ。ずっと以前にも引用したことがあると思うが、ちょっと引いてみる。

もし今、われわれの考えるように、人間とは、状況における自由体であるということが認められれば、その自由が正統である(authentique)か否かは、それが、自分の生まれ出た状況の中において、如何に自己を選択するかによって決まることになろう。正統性は、言うまでもなく、状況を、明晰且つ正当に自覚し、その状況の内在する責任と危険を引き受け、誇りをもって、あるいは辱恥にかえても、そして時には、恐怖や憎悪によっても、その状況の権利を主張するところにある。従って正統性が、非常な勇気を有し、更に、勇気以上のものも必要とすることは、疑う余地がない。従って、非正統性の方が、むしろ一般に拡がっているのも、驚くには当たらないわけである。(岩波新書版 p111〜
112 安堂信也訳)


サルトルは、この後の箇所で、たとえば「正統でないユダヤ人」というふうに言うとき、この「正統でない」という表現は、『如何なる道徳上の非難も含むものではない』(p115)と書いているが、それは、エコノミー(正当化)とは関係のない次元の話である、という意味だろうか?
それでも、「正統性」が価値であること、それも非常に強い意味の価値であることは、間違いないだろう。
この「正統性」というものを、たとえば暴力の現場において、どう考えるか。


ぼくが、「自己の立場性を越えた、絶対的な倫理において、この(暴動の)暴力を支持する」というふうに書いたとき、それは、この「正統性」のことを言ってたのだろうか?
ちょっと分からない。


ただし、サルトルの思想については、よく知らないのだが、「正統」という翻訳語について言うと、それは何か確固たる「正義」を根拠づける後ろ盾みたいなものがある、という印象を受ける。
神皇正統記」の「正統」、朱子学的な言葉、という印象である。
つまり結局、やはり何かが根拠づけられてる(正当化されてる)のではないか、という疑いは、ちょっとある。


ある現場で、やむをえないような状況に置かれ(サルトルが、上の文を書きながら想起してるのは、明らかに自分のそういう体験だろう)、(たとえば)暴力を行使せざるを得ない場合、少なくとも、自分のなかの躊躇する何かを、または他人のなかのそういう部分を、消去せねばならない場合はあるだろう。
それが「正統」なことであったとしても、やはり何かを「消した」ということは残る。「消した」ことは、その場で、その人に関しては、まったく正統な(ゆえに、無条件に支持されるべき)ことであったとしても、その人が「消した」という事実、傷は消えない。
「消した」ことまでを消してしまってはいけないはずだが、「正統」ということが、もし根拠づけ(正当化)のために働くなら、それはこの悪い消去を可能にしてしまうだろう。


だが、サルトルが言おうとした「正統性」の核心は、おそらくこの「傷を消さないこと」に関係するのだろう。それはむしろ、自分がそのとき、現場で、やむなく何かを「消した」ということを否認しないこと、その記憶の保持のようなことに関わるのだろう。
そこにこそ、サルトルの、いわば「愛」があるのだろう。
人を(とりわけ、虐げられた人を)、傷や痛みのなかへ押しやるばかりか、傷や痛みの記憶(自覚)からさえ遠ざけようとする巨大な暴力に抗う、愛である。


ユダヤ人 (岩波新書)

ユダヤ人 (岩波新書)