『雄羊』

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デリダが亡くなる前年の2003年に行われた、ハンス・ゲオルク・ガダマーを追悼する記念講演を文章化したもの。

最初のパートのなかで、こういうことが書かれている。

 

『というのも、そのたびに、そのたびに単独=特異に、そのたびにかけがえなしに、そのたびに無限に、死は、まさしく世界の終わりだからである。それは、世界内の誰かあるいは何かの終わり、ある生あるいはある生者の終わりといった、数ある終わりの内の一つであるだけではない。死は、世界内の誰かを終わらせるのでも、数ある世界の内の一つを終わらせるのでもない。死はそのたびに、そのたびに算術の計算に立ち向かって、ただ一つの同じ世界の絶対的な終わり、それぞれがただ一つの同じ世界として開始するものの絶対的な終わりを印づける。唯一無二の世界の終わり、人間であろうがなかろうが、しかじかの唯一無二の生者にとって世界の根源として存在する、あるいはそのようなものとして現われるもの全体の終わりを印づけるのである。

 そのとき、生き延びる者は、ただ独りで残されるのだ。(中略)彼は、少なくとも自分がただ独りで責任を負う者だと、他者をも彼の世界をも担う定め、消滅した他者と消滅した世界そのものとを担う定めを負う者だと感じている。世界なしに(weltlos)、どんな世界の土地もなしに、以後は、世界の終わりの彼方の地の果てのような、世界なしの世界の中で、ただ独りで責任を負う者だと感じている。(p020~021)』

 

ここで言われているのは、こういうことだと思う。

ある人(もしくは人間以外の生き物)の死に直面したとき、(特にそれが身近な存在の死である場合には意識しやすいが)その人(もしくは動物など)が不在である世界を、私たちは現実として受け入れ難いという思いを持つ。それは、昨日までの(死以前の)世界がそうであったようには現実ではなく、私には現実として受け入れることができない、現実ならざる様相の世界でしかない。

つまり、そのとき、「唯一無二」である、この現実の世界そのものが(私から)失われているのだ。

私にとっての生命の喪失というのは、本来そうした出来事である。デリダが言っているのは、まずこうした事柄であると思う。

そして、二段落目では、このように「世界なしの」状況にただ独り置かれた私(生き延びる者)が、他者と向き合い、他者とその世界を担い、責任を負うという、「単独=特異」な場所の倫理性が語られているのだが、このような場所こそが、デリダが私たちの生の剥き出しの在り様として見出したものだと言えるだろう。

生命の喪失、他者の死は、(私にとって)取り返しのつかない(かけがえのない)ものだが、その「取り返しのつかない」ということこそが、じつは私という生存の独異性(「単独=特異」)を支えている。身近なものの死は、そうした生存の構造の在り様を、私たちにまざまざと知らしめるのだ。

 

 

さて、そこからデリダは、やはり生前に深い関わりのあったパウル・ツェランの詩の読解を通して、このテーマを掘り下げていく。その詩とは、最終行に

 

『世界は消え失せている、私はおまえを担わなければならない。』

 

と書かれている作品である。

デリダは、たとえばこのように述べている(日本語表記のみ引用)。

 

『世界がもはや存在せず、もはやここにではなく、彼方に存在しようとしているとき、もはや近くにはなく、もはやここにではなくあそこに、もはやあそこにすらなく、遠くに消え去って、たぶん無限に接近不可能であるとき、そのとき私はおまえを担わなければならない、まったく独力でおまえを、おまえだけをただ私の内だけに、あるいはただ私の上だけに担わなければならない。(p073)』

 

『もし私、この私が、おまえ、おまえを担わなければならないならば(ところでは)、さて、その場合には、世界は消滅しており、世界はもはやそこにもここにもなく、「世界は消え失せている」。(中略)もはや世界がない世界に、私はただ独りだ。(p074)』

 

さらに、講演の後半では、デリダが強い影響を受けてきた三人の思想家、フロイトフッサールハイデガーへの批判的言及を通して、この思索が展開されていく。

 

『それでもなおある種のメランコリーは、正常な喪に抗議するに違いない。このメランコリーが、理想化的な取り込みを甘受するはずがない。フロイトが、まるで正常さの規範を確証するためでもあるかのように、もの静かな確信を持って述べていることに対して、メランコリーは激怒するにちがいない。「規範」とは、健忘症の良心にほかならない。そのおかげで私たちは、他者を自己の内部に自己として保存すること、それはすでに他者を忘れることだということを忘れることができる。忘却が、そこに始まるのだ。だから、メランコリーが必要なのだ。(p081)』

 

またフッサールに関して、

 

『そのとき私は、世界が見えなくなるところで、他我を担い、おまえを担わなければならない。(中略)自己固有化することなしに担う必要があるのだ。担うとは、もはや自己の内に「含む」こと、封じ込めること、包含することではなくて、まさに私の内部でも、つまり私の外なる私の内で、他者の絶対的超越性を迎え入れるために、他者の無限の自己固有化不可能性の方に向かうことなのである。そして私として私が存在するのは、私が存在することができるのは、私が存在しなければならないのは、私の内における無限に他なるものの、この脱臼した奇妙な懐胎期間以降のことでしかないのだ。世界がもはや私たちのあいだや私たちの足元には存在せず、私たちのために媒介を保証したり、基盤を強固にしたりすることのないところで、私は他者を担い、おまえを担わなければならず、他者は私を担わなければならない。(p083)』

 

『存在する前に、私は担うのであり、私である前に、私は他者を担うのだ。私はお前を担い、そうしなければならず、私はおまえにその義務を負っている。(p084)』

 

これらの批判的言及において強調されているのは、「自己固有化」されない、つまり同化されない他者と、「世界なしの」状況において出会うことの重要性である。

そういう他者との出会いだけが、私の生の独異性を成り立たせる。私が、そうした他者とその世界(生)を(「世界なし」に)担うことによってだけ、私は独異(「単独=特異」)な生としての、私自身として生きうるのだ。

デリダのこのような言葉が、2003年のヨーロッパにおいて、難民や宗教(的対立)の問題を念頭に置いて述べられたものであることは明らかだろう。

そして、この講演の最後では、次のように述べられる。

 

『(前略)私としてはまず、私たちの内で、私たちよりも前に他者が語っているその場で、私たちがどれほど他者を必要としているのか、これからもなおどれほど彼を必要とし、彼を担うことを、彼によって担われることを必要としているのかということを喚起することから始めただろう。(p088)』

 

こうして、ヘルダーリンのある詩の一節が引かれて講演は終えられるのだが、その一節は、訳注によると、(より正確には)次のようなものである。

 

『ほかのものたちにたよるということは / 良いことだ。だれもただひとりでは生(いのち)に耐えないからだ』