杉田俊介著『無能力批評』への批判



この、ぼくにとっても社会にとっても際立って重要と思える本のなかで著者の杉田さんは、たとえば『どんな運動にものってこない人の身体(=無能さ)を、同時に、考えること』(p83)が運動にとって大事ではないか、というふうに書く。杉田さんは、大きな「正義」なり「肯定」(ドゥルーズ)ということから零れ落ちるような、個々(自己)のなかの卑小な弱い部分を手放さず向き合うこと、言わば「ルサンチマンを徹底する」ことこそ、真の「愛」や「連帯」や「平等」を実現する道筋であると考えているようだ。
ルサンチマンを否定し、「弱者」を排撃するにいたったニーチェの反動性(弱さの帰結)を不問にするのでも否定するのでもなく、むしろその「弱さ」をこそ徹底させること。疲弊するような卑近な「敵」との抗争、葛藤の泥沼の果てにこそ、本物の「愛」への希望を見出そうとする。
みずから「生存的貧困」のなかにあると書く杉田さんの、その姿勢には、鬼気迫るものがある。
だがぼくの目には、杉田さんは、杉田さんが「敵対性」「敵対的関係」と呼ぶ矛盾と葛藤のフィールドに、そこには回収されない要素を持つはずのものまで混同して入れてしまっているようにみえる。そのとき、杉田さんが、このもの(無能力者)に対して感じていたはずの外部性(他者性)は、ほんとうに損ねられず残されているのか。
このことを、以下で問いかけてみたい。

「無能」と「邪悪」

たとえば、荒木飛呂彦作『ジョジョの奇妙な冒険』を論じた文章では、「無能(無能力)」と、「邪悪」とが並べられている。
杉田さんの批評の凄みのひとつは、「邪悪」を突き詰め、肯定しようとしている点にあるといえるだろう。たしかに、「邪悪」な他者(敵)との抗争を通してしか得られない真の「肯定」というものが、あるだろうとは思う。
矛盾・葛藤の徹底を言い、「敵対性」の意義を強調する杉田さんの態度は一貫している。そして、この態度自体に異議を唱えることは、ぼくにはできない。


だが、元来杉田さんにとって、「邪悪」と「無能」とは、同じものなのだろうか。たしかに、両者は近接しているかもしれない。いや、重なる場合が多いとさえ、言えるかもしれない。
だが、とりわけ杉田さんにとって、「無能」のなかには、「邪悪」に還元されないものがあったのではないか。
相手を「邪悪」に感じるということは、すでにある種の心理的な場(転移)を共有しているということで、その意味で「他者」とは異なる。だからこそ、そこには、それを突き抜けた「愛」の可能性も生まれるのだろう。
だが、「無能」なものは、それとは違う。攻撃や抗争のなかに自分を見出す人、矛盾や葛藤の向こうにこそ真実の「愛」を見出しうると考える人にとって、「無能」なものには、なにか理解できない点が残るはずである。それが、杉田さんの言う「世の光」としての「無能(力)」というものではないのか。
「無能(力)」には、「敵対性」によっては考え尽くせないもの、その「外部」(条件)ともいえる部分があると、杉田さんには感じられていたのではないか。
ここで「敵対性」ということの内容が問題になるが、もしそれを「邪悪」な他者(敵)との抗争(=愛)としてだけ捉えるなら、「無能」なものはそこには包摂されえないはずである。「無能」は、「抗争(=愛)」の領域の外にあって、むしろその領域の現実性を可能にしている「光源」(「世の光」)として考えられているはずだからである。
この、外部(条件)としての、杉田さんにとっての他者としての「無能(力)」は、このとき何かに変えられてしまっているのではないか。
一口に言えば、杉田さんは、「無能」(他者)を「邪悪」(敵)のなかに、その意味での「敵対的関係」(=愛)の領域のなかに、回収しようとしているように思えるのである。



敵対性の外部

ここで、杉田さんにとって「無能」が意味するところ、それと「敵対性」との関係について、やや具体的に考えてみよう。
たぶんに「ひきこもり」「ニート」的であるぼくは、「生まれてこなかったことを夢みるイエス」という副題のついた「ニート/バートルビー」という文章に、とりわけ強い興味をもった。
この文章は、杉田さんのもとに、ひきこもりの状態にあるKという友人の母親からの手紙が届くところからはじまる。
この手紙に強い衝撃を受けた杉田さんは、フィクションを交えてこの手紙の文章を言わば書き直し、その「リアル」を伝えようとするのだが、そこからメルヴィルの小説『バートルビー』の主人公の話へと、語りが移っていく。
「生まれてこなかったことを夢みる」というのは、このKの心境と、「バートルビー」という人物についてのデリダの感想とを重ね合わせる言葉として用いられている。
杉田さんは、この言葉によって表現されるもの(心理)のなかに、「無能者」の側から届く、現実の世界に対する否定や怒り、そこから(自己の)生の否定への強い傾向を聞き取ろうとしているように思える。
それに撃たれて、自分が自明と考えてきた現実のあり方を根本的に問い直さざるを得ない、杉田さんへの一個の強力な批判的な問いかけであり、そのメッセージを投げた人が己の生きていることについての「怒り」に充ちた否定的な心情を表現する言葉として受けとっている。そう思う。
だが、杉田さんにとって「無能」が持つ意味、その「光」の内実は、それだけに還元できるものだろうか?


ぼくは、ここでの「生まれてこなかったことを夢みる」という心理の背景には、たんなる(この)生への否定ではなく、むしろ、生にまつわる名指せない何かへの(ある種の)肯定が響いているように思う。
この人(K、バートルビー)が、行為を行うことや、コミュニケーションすることを拒むのは、それらのことが、(この文章で引かれているアガンベンの言葉を借りれば)、なにか「全的」なものを侵害する、削減されていくことにつながると感じられているからである。
この「全的」なものは、ふつう想像的なものと考えられるだろうが、たぶんそれだけではない。
その人の生き方は、現実にある生に対しては、たしかに否定的であり、自己や他人に対してさえ破壊的ともいいうる。現実に、こうした拒絶の果てには、「餓死」のような結末だけがあるかもしれない。
だがそれでも、だからそれが緩慢な自殺や心中のような生であるとしても、その人は、ともかくそこで直ちに死を選んでいるわけではない。それは、現実化していない(また、することがないと感じられている)もの(生?)に対する「肯定」を含んでいるのである。むしろ、その肯定のゆえに、こうした人は現実を生きることを拒み、(多くは)結果として死んでいく。
つまりそれが「死の欲動」と呼ばれるわけだが、それはある「肯定」を含んでいるということだ。
「K」もバートルビーも、生きるための全てを拒絶して生きる、という仕方で実は生を、少なくとも生にまつわる「何か」を選んでいる。その「何か」が、美しいもの、善いものか、醜悪なものかは別にして、ここには「肯定」の力が、たしかに響いている。
これが、ぼくの捉え方である。
つまりここには、生(現実)に対する否定の衝動(怒り、攻撃性)ということ以外の、言い換えれば「愛」という言葉に還元できないような、何かへの「肯定」がある。「敵対的な世界」には、外部がある。
むしろそのことこそが、杉田さんをここで撃ったのではなかったか?


ここでは肯定の対象は、「現実」には存在しないのだが、肯定だけがあるとも言えるだろうか。
現実に対する否定(攻撃)の傍らに、あるかないかの形で浮かんでいる「肯定」の影のようなもの。
それは、大文字の「肯定」や「正義」とは異なり、あるかないかの、外からの弱々しい光なのだが、それが抗争(愛)の場の、「敵対性」の空間の現実性を核心において支えている。
だがぼくには、杉田さんは自分が見出した、この「対象のない(かすかな)肯定」のようなもの(外部)を、時折自ら、消し去ってしまっていると思えるのだ。

目的と道筋・危険

おもに田中美津について論じた「無能力批評B」という文章の最後に付された(注)には、次のような一文が見られる。

しかし、そこにはやはり、他者を殺したい、他人の弱さの核をこそ蹂躙したい(攻撃性)、あるいは死にたい、生まれてこなければよかった(死の欲動)などの精神分析的な水準があまり見られない。死にたい、でも、消えたい、でもなく、「生まれてこなければよかった」という根源的な否定性の欲動。(p219〜220)


繰り返しになるが、「攻撃性」と「死の欲動」は、ぼくには別のものに思える。
杉田さんがここで言うような意味での「死の欲動」(「生まれてこなければよかった」)には、他者への「攻撃性」や、(自己の生への)「否定性」にだけは還元されないもの、その外部(条件)、つまり「対象のない肯定」がある、と思うから*1
杉田さんは、この両者の間の(あるかなしかの)差異を消し去って、「無能」なものの欲動を、自分にとって理解可能なものに変えてしまっていると思うのだ*2


さらに、もう少し例をあげる。
ひときわ瞠目すべき論考である「無能力批評C」のなかに、健全者・介助者と障害者との関係について、次のような文章がある。

両者の間の消えない非対称性、敵対性を通してお互いが「変えられていく」経験がある。先に、CP者どうしが内なる健全者幻想の除去を目指す精神分析的空間に、無力な重症児からの月明かりが差し込んでくる光景を見た。同じように、介助者という敵対的他者たちとの関係を通して、はじめて、障害者自身も――自力で自分たちの意識と感性を改変していくことを+a、過剰して――別の形で自分たちを「変えられる」。(p241)


繰り返すが、「同じように」とは言えないはずである。
「敵対的他者」は、「無能」なものとしての「他者」とは異なる。「敵対的他者」は、「私」と同じく「敵対」することが可能な空間の内側に居る存在だから。
いや実際には、「敵対性」は、たしかに他者性をはらみうる事柄である。だが問題は、杉田さんが、「敵対的関係」ということを「転移」的な要素にほとんど還元しようとしているように思えることだ。
転移の、泥沼の葛藤を通してしか、見えない真実、築けない関係がある。
たしかにそうかも知れない。
だが、転移の泥沼、敵対・抗争の修羅場を通して、目指されているもの(「真実」「関係」)が、そこにあるはずだ。その目的に至るために不可避な道であるから、「転移」や「敵対」を突き進む、ということである。
しかしそのことが目的の実現にとって不可避であるからといって、それが目的の本質であるということにはならない。目的には、道筋(手段)より以上の何か、そこに還元されない要素があるはずである。
手段は目的と、ほとんど同じだが、差異とは言えないような差異がある。
ぼくはそれが、あの「対象のない肯定」だと思う。
これが、敵対性を、他者との関係(非関係)として成立させている不可欠の要素である。
杉田さんは、その存在に気づいていないか、知っているのにあえて無視しているか、どちらかだ。


「無能力批評C」の最後には、70年代の「青い芝」の運動を批判した、次のような一文がある。

だから、一度は無能力の光として立ち現れた障害児の存在も、簡単に同化され、たとえば横田弘の怒りも、自分たちと対象の外在性を維持できず対象=重症児を簡単に同一化してしまう。(p261)


「無能」なものの他者性を消し去り、同化しているという点で、ぼくには、本書での杉田さんの姿勢には、この文章の批判が、そのまま当てはまるところがあると思える。

結論

杉田さんの言う「無能力批評」という言葉の意味は、「無能力」とされているものの側から差す光によって、自分を含めた、この世界のあり方を正し、「未生の存在」さえ含めた全ての生ある存在の価値の肯定や回復を目指す、といったものであると思う。
この本の、とりわけいくつかの論考において、その効果は果たされていると思う。少なくともぼくは、たしかに撃たれ、力を与えられるところがあった。
だが、「目的」として、その力の源、光源であるはずの「無能」が、いつしか「敵対性」や内なる「攻撃性」(ルサンチマン)を正当化するための「手段」に変容してしまうことを、怖れる。


(個々の論考については、また稿を改めて書くかも知れません。)

*1:この肯定に対象がないのは、肯定が「対象」よりも根本的なレベルに向けられてるからかもしれない。だがそれは、「根本」とか「土台」ということではないだろう

*2:ちなみに、この文章では加藤秀一著『<個>からはじめる生命論』が示唆されているが、あの本で言われていた「生まれてこなければよかった」という表現の意味と、「ニート/バートルビー」におけるそれとは、大きな違いがあると、ぼくは思っている。