西成の暴動(?)に思うこと

http://booksarch.exblog.jp/7217319/
上田さんのこの記事を読むと、16日の夜も相変わらず西成署前では派手な状況が続いてるようなので、ぼくは行かない代わりに、思っていることをここにメモしておく。


一方に警察からリンチにあったと訴えてる人がいて、他方で警察はその事実を否定している。
つまり、被害を受けたと言ってる側の当事者と、加害したと訴えられてる側の当事者がいて、双方の主張が食い違っている。だが、マスコミは被害を受けたと言ってる側の当事者の言い分を詳しく伝えることはせず、警察(加害したとされている側)の言い分をそのまま報じている。
この報道の態度が、まずおかしい。


現場では連日警察による放水や消化剤の散布が行われ、すでに10人ほどの逮捕者と、警察側にも負傷者が何人か出ている。
他に大きな出来事があるせいもあろうが、報じられることが余りにも少ないと思う。
学生や一般企業の労働者のデモや抗議に対して、放水車が出てきて毎夜水をあびせれば、ふつうは大きなニュースになるだろう。だが、西成の労働者や群集が放水を浴びせられても、ニュースにはならないようである。
西成署だけではなく、差別の気持ちが、われわれの社会全体にあるのだということが端的に分かる。


唯一この番組を詳しくとりあげていた朝日放送の番組を見ていたら、鈴木邦男は、明確にこの労働者の行動を支持し、警察を批判するコメントを述べていた。
これは立派だ。
だが、警察の横暴に対して立ち上がっている人たちの行動を、むしろ(警察権力の不正をいさめることにより)社会の正義を真に守る行動であるとして断固支持することは当然として、それだけでは不十分である。
かつてあったように、暴動が飛び火して不測の暴力が生じたとき、周辺にいる弱い人たちが被害を受ける可能性を考えざるをえない。
そしてそうなったとき、被害者(になりうる人たち)を守れるのは、現実には警察権力以外にない。
だから、警察権力に直接抗議・対峙する当事者の正当性は無条件に認めるにしても、第三者・傍観者の立場としては、ここで警察権力への批判のみを行って済ませる、というわけにはいかないのだ。


すなわち、こう考える。
警察(とりわけ西成署)には、そもそも長年にわたり、この地域の人々に対する不正義な行為・対応(前回の記事中に引用した生田さんの文章に書かれていたような)を積み重ねてきたこと、それ自体の過失・責任がまずある。
のみならず、そのことによって、今回のような暴動という事態、それにより周辺に住む第三者を含めた多くの人たちを直接的な暴力のなかに置いた(置いている)という、二番目の責任が生じている。
警察は、またより広くはマスコミやわれわれの社会の全体が、この二重の責任を、まず自覚するべきだと思う。