『差異と反復』読書メモ・6

河出文庫の『差異と反復』をまだ読み直しているので、こちらにもいくつかメモ的な文を載せておきます。

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

概念には爪が欠けている

プラトンイデア論についてだが、この本でドゥルーズがやろうしてるのは、「イデア(理念)」を「道徳」から救い出す、というふうなことだ。
では「道徳」とは何かというと、結局、自分の頭で物事を考えないようにしてる(思考させないようにしてる)仕組みのことを指してるらしい。それを突き崩す力が、じつは「イデア(理念)」にはあるのだ、という転倒を、ドゥルーズは目論んでるわけである。
「命題」とその「解(解決)」の次元には還元されない、「問題」という水準の重要性を出してくるのも、そこに関わっている。

おそらく、そうした信念は、〔思考の〕ドグマティックなイマージュのこれまでに言及した諸公準――それはつねに、文脈から切り離され、恣意的にモデルとして打ち立てられた、幼稚な範例である――と同じ起源を持っている。そうした信念は、ひとつの小児的な先入見である。問題を出すのは先生であって、わたしたちの仕事はそれを解くことであり、この仕事の結果は、ひとつの強大の権威によって真あるいは偽という質が付与される、と考える先入見である。また、そうした信念は、露骨に、わたしたちをいつまでも子どもにしておこうとする、ひとつの社会的先入見である。(上巻 p420)

概念に欠けているのはひとつの爪である。絶対的必然性の爪、すなわち、思考に加えられる根源的暴力という、また奇妙さという、あるいはそれだけが思考をその自然的混迷とその永遠の可能性とから救い出す敵意という爪であるようなひとつの爪である。(上巻 P371)


やっぱり第4章(下巻)の「差異の理念的統合」のところ以下を、ちゃんと読み直さんといかんなあ。

カントへの批判

ドゥルーズにおけるプラトンの「道徳」に対する批判。
これは「同一性」にもとづく概念的な思考のあり方に対する批判と結びついているらしい。
イデアを道徳から救い出す」ということは、「イデアを同一的な(ということは表象的な)思考から救い出す」ということでもある。
同一性にもとづくものとしての「概念」、また概念による思考をドゥルーズが批判するのは、それが差異をそれ自体としてとらえる(思考する)ということをできなくなせるから、われわれを概念による一般化された世界像のなかに閉じ込めてしまうからだといえる。
ところが逆に、同一性にもとづかないような概念を、ドゥルーズは創造しようとするのである。ここが、この人の非常に変わってるところだろう。
「概念なしに思考しよう(生きよう)」というのではなく、差異の具体性を損なわないような概念、本来の(同一的でない)イデアを生かせるような概念を作る方に賭けようとするのだ。


ところで、第4章以降では、イデア(理念)という言葉の主たる参照元は、プラトンからカント哲学に移る。
ぼくはプラトンも読んだことがなく、カントも短いエッセーみたいなのしか読んでないのだが、そこには目をつぶって書く。
ドゥルーズの考えるイデア(理念)は、カントの「統整的理念」のようなものであるという。たしかに、プラトンの「イデア」よりは、カントの「理念」の方に近い印象がある。
だが、カントには欠けているものがあると、ドゥルーズは言う。
カント哲学に対するこのような批判は、本書のなかで何度も繰り返されるものだが、それは「発生の観点」の欠如であると第4章のはじめの方に書いている。これは後で具体的に語られる「理念の現実化」のことであると思われる。
経験的には感じることも考えることも(通常の意味では)できないものであるイデア(理念)、諸能力の「超越的使用」の対象でしかありえないイデア(理念)は、それにも関わらずたしかに実在している(つまり、世界は経験的であるばかりではない)のだが、そればかりではなく、それはある複雑な仕方によって経験的な世界のなかに「現実化」されるのである。
本書の後半は、そのイデア(理念)の現実化(発生)のダイナミズムをめぐる叙述になっていると思う。
このような発生ということを考えるとき、ぼくがひとつ関心があるのは、その過程が「漸進的」であると言われてることだ。つまり、それは「少しずつ」進むということ。
これはなぜなのか?
ある箇所では、漸進的といっても、ここでの時間はあくまで論理的な時間である、と書かれている。しかし同時に、それは経験的な(物理的な)時間に反映する、みたいなことも書いてある。
ともかく、この点がちょっと興味深い。

問題について

上でも書いたが、ドゥルーズが「理念的総合」、つまり理念の現実化ということを語るにあたってもっとも重視しているのは、「問題」という概念である。
解に還元されない(超越している)、けれどもまた解に内在してもいるという、「問題」の不思議な性格こそ、「理念」とはいかなるものか、とくに経験的な世界においてどのように「理念」なるものはとらえられるのか(見出されるのか)、ということを示しているのである。
つまり、この世界はどのようにして経験的であるばかりではないと言いうるのか、「問題」ということを考えることによって明らかになる。
ドゥルーズは、数学の歴史のなかで「問題」というものが十分に理解されてこなかったことを批判する。

たとえば、問題の理論がどうどう巡りをするつぎのような循環を思い起こしてみよう――すなわち、ひとつの問題は、その問題が「真」である限りにおいて解決可能であるのだが、しかしわたしたちはつねに、ひとつの問題が真であるということを、その問題が解決可能であるということの方から定義しようとする、という循環である。わたしたちは、解決可能性という外的な指標を、問題(《理念(イデア)》)の内的な特徴〔真理性〕に基づかせるかわりに、その内的な特徴を、そのたんなる外的な指標〔解決可能性〕に依存させるということだ。(下巻p40)


こうした循環を打ち破り、「解決可能性は問題の形式から生じねばならぬ」ことを示したのは、アーベルとガロアであると言う。

こうして問題の理論はすっかり変貌し、最終的に根拠づけられるのであるが、それというのも、わたしたちはもはや、先生と生徒の古典的な状況のなかにはいないからである。――すなわち、生徒が問題を理解し問題についていけるのは、先生が問題を知っていて、それに応じて必要な補助を与える場合にかぎられるといった状況のなかにはいないからである。(中略)そうした〈非―知〉は、反対に、もはや否定的なものでも欠陥でもなく、それはひとつのものさし、すなわち対象における基本的な次元が対応しているひとつの学ぶことなのである。(p41〜42)


真に重要なのは、問題(理念)であり、その(それ自体の)運動である。
ここでは、それだけを確認しておこう。