『パレスチナ1948・NAKBA(ナクバ)』

この映画の監督の広河隆一さんは、1967年(第三次中東戦争があった年だ)にイスラエルのあるキブツ(キブツダリアと呼ばれる)に行き、そこでヘブライ語を学んだりしながら共同生活を体験したという。
http://www.nakba.jp/fromdirector.html




キブツ(またはキブーツ)と呼ばれる、この「ユダヤ人入植村の協同組合」のことについては、先日のエントリーで紹介したこの本のなかでも語られていた。
ある時期まで、その共同体を一種の社会主義の理想とみなして、憧憬し、そこに赴く左翼的な青年というのは、日本にも少なくなかったようである。広河さんも、そうした青年たちの一人だったのだろう。
また、キブツについては、比較的最近でも、日本の「ひきこもり」の青年で、キブツに一定期間ステイしたなかで、周囲から人間として承認されているという体験をして、生き方が大きく変わったという人を知っている。
世代を越えて、日本の青年たちが、この共同体に引き寄せられる理由は、ぼくには定かに分からない。


ともかく、広河さんは、67年にそこへ行って暮らした。
そのある日、農作業をしていて、土のなかに瓦礫を見つけ、また崩れた石垣の跡のようなものを目にしたそうである。
それらが何なのか、周囲のユダヤ人に聞いても、はっきりした答えはなかった。
やがて、戦争の勃発もあって、広河さんはイスラエルの国のあり方に疑問を持つようになり、68年にはイスラエル国内の反占領組織の人たちとつながりを持つに至る。
そのなかで、広河さんは、自分が目にしたあの瓦礫や石垣が、1948年の出来事によって破壊されたパレスチナ人の村落の跡であり、自分が理想と考えて生活していたキブツが、その廃墟がある土地の上に存在しているようなものであることを知る。


この映画を見ていて、奇妙な印象を受けるのは、描かれる事柄の時系列が、あちこち行き来しているように思えることだ。
「始まり」は、広河さんが瓦礫を見つけた67年のあの日なのか、それともそれが何であるかを事後に知った別の日なのか、あるいはその直後に「自分のジャーナリストとしてのパレスチナとの関わりの原点」として語られる82年のジェニンの虐殺の日なのか、あるいはまた多くのユダヤ人が「これで取り返しがつかないことになった」と口をそろえるユダヤ人ゴールドシュタインによる虐殺事件が起きた日なのか、それともこの映画のタイトルとなっている48年というナクバ(大惨事)の日付なのか。
それらのどれが本当の「始まり」なのか、という問いは無意味だ。その問いが、意味を持たないような視点から、この映画は撮られ、作られているからだ。
それが、この映画をとおして、パレスチナの現実と自分との関わりを手探りする、広河さんの眼差しである。


この映画の登場人物のなかで、とりわけ印象的なのは、キファーというパレスチナ人の若い女性である。
この人は、18歳のときにイスラエルとの武装闘争に参加して捕らえられ、6年間収容所に入れられて、電気を使った拷問や精神的な拷問など、ひどい経験をすることになる。
ところが、広河さんたちの尽力で解放されて家族たちのもとにもどった彼女は、そのときの体験について、ときおり笑顔さえ見せながら、饒舌に語る。その様子は、ごく普通の若い女性が、興奮交じりに自分がしてきた珍しい体験を友人や家族に語って聞かせてるようでさえある。その姿に、まず驚かされる。
そして、そのときの彼女の表情の豊かさ。
語られている内容が、それが全てではないにしても、語られてるだけでも十二分に壮絶なものであるだけに、この彼女の姿の印象は強い。


さらにまた、その直後には、数日後に控えた結婚を取りやめようかという相談を、キファーが広河さんにする場面があるのだが、このときには彼女は、現在の不幸さに比べれば収容所のなかでの生活は「完璧だった(ずっと良かった)」という意味のことを言って、広河さんを驚かせる。
この場面も印象深い。
どう印象深いかというと、いくら親身になってくれる人だとはいえ、言葉も十分に通じない外国から来た他人である広河さんに、こんな相談を持ちかけるということは、たしかに彼女の「現在」は、不幸であろうという想像は出来る。つまり、こういう相談が出来る人が、彼女の周囲にはいないように想像できるからだ。だがそれにしても、それと比較して収容所の体験を持ち出し、「完璧だった」という表現をする彼女の言葉は、もちろん字義通りには受け取れない。
それは自明だろう。
しかし、そこまで強い表現を用いて、現在の不幸への不満(異議)を表明する、その彼女の言葉と表情のインパクトに、ここでもぼくは打たれるのである。


だが考えてみると、そうした彼女の表情や表現をカメラの前で引き出しているもの、それは広河さんとの関係性に他ならず、ということは、広河さんの視点と身体によって開かれたそれらの、パレスチナの現実の姿に、ぼくはきっと心を打たれているのである。
この映画は、何よりそうした映画なのである。


だがそれは、広河さんのたとえば「善意」に同一化することが、ぼくたちを安心させるからではない。
この映画を見ていて、強く感じることのひとつは、こういうことだ。
過去の出来事をめぐる意見の相違には、検証によってその相違を埋めていくことが可能なものと、そうではないものがある。これは、そうした相違には、二つの水準があるということである。
この映画は、48年の出来事、とくにいくつかの大規模な虐殺がたしかに在ったということの実証を、ひとつの重要なテーマにしている。そうしたことは、もちろん重要である。
だが、そうした実証(検証)によっては埋められない意見の相違のほうが、その分だけ根が深いとはいえるだろう。
それは一言で言えば、加害や支配・抑圧を行った側と、それを被った側とでは、同じ事実について、見えたもの、経験したものが異なる、という「相違」の水準だ。
この相違は、検証だけによってでは、埋めることが出来ないのである。


このような相違(の水準)に関していえば、人は、抑圧されている側、被害を受けた側に、無条件にコミットする他ない。
それは、私が私であろうとする限り、それ以外にはなしえない行為なのである。
「検証されうること」が、そのこと(土台)の上に成り立っているとまではいわない。だが、その水準を、つまり私が私であろうとすることを放棄するなら、そもそも「検証」は何のためになされるのだろう。
検証を固めていく農具がかならず突き当たる地中の瓦礫のように、この水準は、われわれの生の地平の底の方に存在しているはずである。
それを忘れるとき、「真実」や「公平さ」が、また「和解」や「相互理解」が、どんな意味を持ちうるだろうか?


だがもっとも大事なことは、「抑圧される側」や「虐げられた側」へのそうしたコミットが、無意識に抑圧する側に立ってきた自分への、一種の愛惜をこめた自己検証と自己告発なくしては、真実のものになりえないだろう、ということだ。
この映画で、広河さんが、パレスチナ人の元村人たちの証言を映すとき、その前後に同じ事柄についての、自分がかつて暮らしたキブツユダヤ人たちの証言の映像を挟むのは、たぶんここに意味があるのである。
あのユダヤ人たちの自己弁護的な証言は、広河さんが描き、また告発する、広河さん自身の姿でもあるのだ。
この映画で広河さんは、客観的に何かを語りうるという抽象的な位置を廃棄して、告発されるべき一人の弱い存在として、自分をスクリーン上にさらしている。
たぶんそうした広河さんの姿勢が、キファーをはじめ、映画に登場するパレスチナイスラエルの人たちの心を開かせているのだ。


この映画の叙述が、時系列のように混乱しているように見えるのは、この映画が、広河さんによる、広河さん自身の、自己とパレスチナとの関わりの検証の道筋を描いたものだからである。
そのことをとおして、自分にとっての「パレスチナの歴史」の真実を、自分として突きとめようとしたものだからである。
ここにあるのは、年表のような時系列にしたがって出来事の連鎖を見下ろす鳥のような眼差しではない。
それは、ちょうど畑の土のなかに生きるモグラやミミズなどのように、自分の身体と嗅覚のようなものだけを頼りに、世界(現実)の姿を、世界と自分との関わりの事実性を探りあてようとする生き物の、いわば地中からの視点(?)である。
この世界への視点、道筋は、言うまでもなく、一人一人によって、それぞれ単独に切り開かれていくしかないものだ。
土の中でもがきながら、「自分にとってのパレスチナ」を探りあてようとしてきた広河さんの息遣いと、それを静かに見守る農夫のようなパレスチナの人たちの眼差しとが、スクリーンに刻みつけられている作品だと思った。