『経験論と主体性』メモ・その1

ヒュームがもっているもっとも単純な、しかしもっとも重要な考えのひとつは、<人間は利己的であるというよりは、むしろはるかに偏っている>という考えである。




前回はあのように書いたが、第2章の『文化の世界と一般規則』というところは、昔読んだときのことを思い出して、少しは取り付く島のある部分である。
自分に関心のある部分をまとめてみる。


ドゥルーズによると、ヒュームの考えの大きな特徴は、人間の本性(自然)を、利己的(エゴイズム)ではなく、「制限された寛容」として見出したことにある。
「感情の不平等」という言葉も使われているが、これは、自分の家族や近い存在に対する愛情、共感の「偏り」、分かりやすく言えば「偏愛」というようなことである。
道徳の根でもある「共感」は、われわれの本性(自然)のなかにあるのだが、それは不平等であり、制限されているという本質を持つ。これは言い換えれば、「共感」は不平等(偏っている)という条件のもとにある限りで、われわれの(生気を帯びた)本性として働いている、ということである。

したがって、わたしたちの自然(本性)が道徳的であるというわけではなく、わたしたちの自然のなかにこそわたしたちの道徳がある。ヒュームがもっているもっとも単純な、しかしもっとも重要な考えのひとつは、<人間は利己的であるというよりは、むしろはるかに偏っている>という考えである。エゴイズムはあらゆる行動の究極のバネであると主張することによって、ひとはみずからを哲学者にして良き思想家であると信じ込むものだ。だがそれはあまりにも安易であろう。ひとは次のようなことがわからないのだろうか。


 「自分の財産の大部分を妻の楽しみごとや子供の教育にさき、自分自身の用途や個人的な娯楽のためには最小の取り分しか残しておかない、ということをしない人間はほとんどいないのである。(『人性論』)」
                           
(p35)


エゴイズムではなく共感が、利己的な個ではなく利己的な(偏った)諸家族が、互いに排除しあっているのが、抽象的でない人間の「自然状態」の姿だというわけである。ここで人間の本性(自然)として置かれているのは、利己心よりも、むしろ偏愛と呼べるようなものだ。
この部分は、この本のなかでもとくに強い印象を受けてきた箇所である。
しかし、今回よく読みなおしてみると、これまでは書いてあることを十分に理解していなかったようである。


問題は、人間の本性についてのそのような認識を提示することによって、ヒュームが社会や文化についての、どのような考えを作り上げたかということである。
ドゥルーズは、ヒュームが社会を考えるにあたって、人間の本性を「エゴイズム」ではなく、(偏った)「共感」に見出したことには重大な意味があると言い、それを次のように説明する。

事実、いくつかのエゴイズムは制限さえすればよいものであろう。だが、もろもろの共感となると、話は別である。もろもろの共感は、統合されなければならないものだからである。統合されて、ひとつの積極的な全体へとまとめあげられるべきものだからである。ヒュームは、どうして様々な契約説を非難するのだろうか。それは、まさに、契約説がわたしたちに抽象的で誤った社会像を提示するからであり、社会をたんに消極的な仕方で定義するからであり、社会を、考案されたもろもろの企ての積極的なシステムとしてではなく、制限されたエゴイズムと利害的関心との総体として理解するからである。だからこそ、自然的人間はエゴイストではないことを思い起こすのは、きわめて重要である。社会を理解しようとする場合、一切はそのことによって理解されるのだ。私たちが自然のなかに見いだすものは少なくとも、家族である。したがって、<自然状態>というものは、つねにすでに、たんなる自然状態とは別のものである。家族は、どのような立法にもかかわりなく、性本能と共感によって説明されている――ここでいう共感とは、両親相互の共感、自分の子供への親の共感である。ここから出発して、社会の問題を理解しようではないか。というのも、社会にとっての障害は、エゴイズムにあるのではなく、もろもろの共感それ自体にあるからだ。(p37〜8)


一口に言うと、ヒュームは社会の形成というものを、何らかの契約や法による「制限」(消極的なもの)としてとらえるのではなく、人間の本性にとってまったく積極的なもの、功利的な発明・装置(つまり制度)としてとらえようとしたのである。
エゴイズムを出発点にしてしまうと、「社会」とは人がそれぞれの欲望なり権利なりを断念し、手放すことによって作られるものであるという、消極的な定義しか出来なくなる。ヒュームは逆に、人間の本性のなかに「共感」を見出すことによって、社会を、人々がその本性にもとづく要請(欲望・情念)を、より十全に充たすための功利的な仕組み、というふうに積極的に定義しようとした。
というより、それが人間の本性の正しい(抽象的でない)把握にもとづいた「社会」のとらえ方だろう、ということであろう。
ドゥルーズはこれを、『彼の主要な考えは、社会の本質は、法ではなく制度であるということだ。(p49)』とも要約している。


だから、ヒュームにとっては、「社会」や「文化」だけでなく、「道徳」や「正義」といった人為も、人間の自然(本性)に発する功利的な目的をより十全に充たすための装置に他ならないものとして重視されるのである。

道徳的世界は人為的な全体性であり、そこでこそ、個人それぞれの目的が加え合わされ統合されるのである。あるいはまた、結局同じことだが、道徳的世界は、諸手段――私の個人的な利害ならびに他者の個人的な利害をともに満たし実現させうる諸手段――のシステムである。(p41〜42)

諸情念は正義によっては制限されず、かえって拡大され拡張されるのだ。正義とは、情念の、つまり利害的関心の拡張である。(p45)

正義は自然の一原理ではない。正義は人為である。しかし、人間は[自然界の]考案する種であるという意味で、人為はやはり自然である。(中略)自然は、文化という手段を介してはじめておのれの諸目的を達成するのであり、心的傾向は、制度を経由してようやく満足させられるのである。(p47)


人間は、社会や文化・制度を作り出すことによって自らの目的をより十全に果たすような本性(自然)を有している、ということである。
逆に言えば、正義も道徳も「利害的関心」の外にあるものではない。われわれの道徳と呼べるものは(そして、全ての普遍的理念は)、ただわれわれの「自然」のなかにだけある。
それが、ヒュームの考えだろう。
ひと言で言えば、この思想においては、正義や道徳は、完全に「人間的自然」にもとづく功利性の下に従属している。そう言えそうである。



一見、人間の行動が利害的関心(功利性)の束縛を乗り越える要素は、ここにはないように見える。
だが次のようなことがある。

ヒュームは、自然[本性]のなかに共感という次元を導入するわけだが、それとならんで、利害的関心に、他の多くのしばしば相反する諸動因を付け加える(すなわち、浪費癖、無知、遺伝、慣習、習慣、「けちで活動的な気質、ぜいたくで豊かさを求める気質」)。心的傾向は、人がそれを満足させる手段から、けっして抽象されるものではない。ヒュームの分析ほど、ホモ・エコノミクスから隔たっているものはない。(p48)


分かることは、ヒュームは人間の欲望(自然)も行動(人為)も、基本的に合理的根拠を欠いたものと考えていたらしいことだ。
つまり、人間は徹頭徹尾功利的に行動する(しているつもりである)が、それはまったく非合理的で無根拠である。
この本でドゥルーズが強調しているのは、ヒュームの思想の、そういう側面ではないかと思う。


ヒュームは、社会においては「理性」は、所有権と会話によって具現されると考えたそうである。
所有権は、18世紀イギリスの思想家だったヒュームが、その社会論においてもっとも重視した「考案」(制度)だったようである。
その所有権について、第3章には『人性論』の次のような一節が引かれているのが、ぼくには興味深い。

所有権を規定する諸規則は、おもに想像によって定められるのではないか、言い換えるなら、わたしたちの思考や理解力のもっとも軽薄な諸特性によって定められるのではないかと、私は疑っている。(p79)


ヒュームが考えた「所有権」も「理性」も、彼の継承者たちが考えたものとはずいぶん違っていたという点を、ドゥルーズは強調したかったのではないだろうか。