憂鬱な読書

この本を読み直してるけど、全然分からん。



分からないといっても、昔から好きな本で、20年以上も前だったか、朝日出版社というところから『ヒュームあるいは人間的自然』という題で出版されてたときから、もう何度も読んでいるのである。
今でもぼくの部屋には、この本が二冊あり、今読んでるものの各処にも(悪癖で)鉛筆で線が引いてあったり、わけの分からん書き込みがしてあったりする。
ところがそれが、こないだ同じ著者の『スピノザ』(平凡社)という本を読み返したときにも思ったことなのだが、書き込みはともかくとして、線を引っ張ってるところは、結構重要なポイントに引いてるようなのである。
ということは、昔読んでた頃は、少しは理解してたということか?
このことがまた憂鬱である。
昔読んで理解してたはずのことや、理解してたということ自体さえすっかり忘れてることがショックなのと、どう考えても今の自分の方が理解力に乏しい、減退してると考えられるからである。
巻末の解説を読んでも、「ああ、昔、こういうとこが面白いと思って読んでたんだよなあ」と思い出すが、そうすると今はそこを「面白い」と感じられなくなってる自分の「鈍化」みたいなものに、やや悄然となる。


そういうわけで、何かと気の滅入る読書なのだが、読み始めたので、もうちょっと粘ってみよう。
ともかく、すごく面白かった本なのだから。
ひとつ収穫は、どうしても見つけ出せなかった以下の引用を発見したこと。

私の指のかすり傷よりも世界全体の破壊を好んだとしても、理性に反することにはならない。(ヒューム『人性論』)