『人はなぜ記号に従属するのか』

 

 

この本の原著は、ガタリが1970年代後半に書き残していた文章を、死後ずっと経ってから他の人が編集して(2011年に)出版したものらしい。

すごく難しい本なのだが、ひっかかりのつかめたところだけをメモ的に。

 

 

『すなわち、シニフィアンは単に言語学者構造主義精神分析家の誤りではなくて、どこかに普遍的な基準が存在し、世界は社会や個人とそれらを統御する法則がある必然的な秩序にしたがって構造化されていて、そこには深い意味があるといった確信にわれわれを従属させる何かが日常生活のなかにうごめいているということを示しているのである。シニフィアンはそのようにして権力構成体の現実的な機能様式を隠蔽する基本的な方式なのである。(p29)』

 

 

たしか同趣旨のことを、ベルグソンも『宗教と道徳の二源泉』に書いていた。端的にいえば、構造主義批判なのだろうが、しかし、シニフィアンを、現実に起きていることを隠蔽する装置だと断じるのは、相当にラディカルである。簡単にいえば、「現実の動向には意味(根拠)があると仮想する傾向」ということだろうか。こう考えれば、「陰謀論批判」などは些末なことにすぎず、われわれの現実隠蔽的な思考のあり方は、もっと根本的なことだということになる。そういうのは、なんとなく分かる。

ところで、ガタリベルグソンとの違いは、資本主義の力の現実性を認識していたことであろうが、そうは言ってもガタリはその「資本主義の力」を非生物の領域にも関わる一元論的(リゾーム的、エコロジー的、宇宙論的)なものとして捉えているので、そこはまったくベルグソン的だ。もっとも、マルクス唯物論をそういう風に解釈する考え方も(特に日本には)、あるのだが。

 

 

『抽象機械はいわば三重の可能性を<物質化する>のである。すなわち(1)自らの解体を行い、機械状の指標のアナーキーに回帰する。(2)意味作用の記号学の作動によって抽象化された形態の下に石化して、相対的に脱領土化された地平となる。(3)ダイヤグラム化の効果によって活発な脱地層化が起き、非シニフィアン的な記号=粒子の流れが生じる。(p223~224)』

 

 

ガタリの「抽象機械」は、いわば両義的な概念で、破壊的(時には反動的)ではあるが、その進行のさなかにおいてだけ、革命や解放が可能だと考えられている。仮にそれ(抽象機械)を資本のグローバル化の運動として捉えると(具象化すると)、上記のうち、(1)はISのような宗教的・保守的反動を、(2)は言わばグローバル化によってコンビニ化した社会や景観を、そして(3)が革命・解放を、それぞれあらわしていると考えられよう。

興味深いのは、ガタリが(1)をアナーキーという言葉で表してることだが、ISやトランプ主義者の体現するヴィジョンはまさにアナーキーなものなので、これは割符が合っていると言えるのかもしれない。

 

 

『集合的な<安心>のシステムが言表行為の領土化を人工的に再生産するのは、意識的変形や脱主体化をもたらすダイヤグラム的変形によってもたらされる目眩をもよおすような主体の脱領土化に対する反作用としてである。かくして、領土化された家族共同体のシステムが崩壊したあとも、原始社会の言表行為の領土化された動的編成への回帰という幻想(<自然への回帰>、起源的意味作用への回帰、等々)が維持されるのである。こうして夫婦からなる核家族が人工的に再創造されるとともに、生産や市場の国際化を前にしながら、国家的諸問題、地域主義、人種差別、等々が大々的に回帰してくるという現状がもたらされているのである。(p249)』

 

 

この部分は、ガタリ自身の文章というより、後年(2011年頃)に編集した人たちの文ではないかと思う。

ともかく、ガタリが「顔貌性」とか「リトルネロ」という(やはり両義的な)概念を用いて分析した、資本主義による保守的・反動的な回収のシステムが問題とされているのである。70年代後半に、ガタリは既にそれを焦点化していたわけだ。

 

 

『もっと根本的に言うと、こうした操作は資本主義的主体化の様式の特殊ダイヤグラム的機能に属している。この操作にとって重要なことは、主要な権力構成体の包含する記号的構成諸要素を集中しミニチュア化することができる言表行為のオペレーター(作用素)を定着させるということである。そのオペレーターはそうした記号的諸要素を縮小しながら、領土化された動的編成の残存物のなかに存続し続けているリゾーム的可能性を持つ無数の動物・植物・宇宙の目を無効化する。(中略)このような条件の下では、もはやシニフィアン帝国主義の視線を逃れることのできるいかなる神秘の一点も存在しえない。(p277~278)』

 

 

ガタリのミクロ政治論の重要な意味は、その名の通り、ミクロな領域での暴力(破壊)やそれへの抵抗がもたらす変化こそが、もっとも根本的だと主張したことだろう。そして、ミクロな領域が現実世界の全体に対してもたらす破壊的ないしは(希望的にいえば)革命的な効果の大きさは、現在の社会では、ガタリが生きた時代よりも、さらに幾何級数的に増しているようにも思える(ガタリエコロジー論の重要性は、そこにあるだろう)。

だからこそ、この領域を支配し、革命に結びつくような変化を抑え込もうとする反動的な意志も一段と強まってくる。こうした意志は、もちろん運動体の内部にも深く埋め込まれて存在しているものだ。ガタリのミクロ政治論が、運動論としても参照できるのは、そのためである。

 

 

『自由とは単に精神の自由ではなく、同時にリゾーム的な働きであり、動的編成のあらゆる構成要素の次元においても現れる。(中略)<機械状の自由>は、単調なつまらないことが<自ずからのごとくに>生じる時点から、そしてまた、人が一方的な自動作用の広がりのなかに陥らずに、その生と記号化の能力を、動くもの、創造するもの、世界と人間を変えるもの、つまるところ個人的・集合的な欲望の選択に集中することができる時点から始まる。(p309~310)』

 

 

この箇所は、ガタリドゥルーズ=ガタリの思想が「ファシズム的」だとして批判されたことの意味を、端的に明かしていると思う。「機械状の自由」という言葉に、すべてが集約されている。キリスト教的でブルジョワ(資本主義)的でもある「個人の自由」の価値が否定されて、生物、無生物、宇宙に開かれたガタリ的な「自然=機械」への合致こそが、真の自由だとされる(シモーヌ・ヴェイユにも似ている)。

この自由観、自然観は、(ベルグソンと同じく)やはりスピノザ的なものだ。ガタリはこの時期以後、エコロジーということを主張の中心にしていくのだが、そこで考えられている自然(エコロジー)というのも、そういう意味のものだ。そして、エコロジー思想とファシズムとの(反人間中心主義的な)共通性ということも現代では批判の対象になったりする。

 

 

ここで思い出されるのは、戦前、三木清が、(民族主義をめぐる高坂正顕との論争的な対談のなかで)スピノザ主義を批判して、スピノザ主義には、コナトゥスの重視という点でマキャベリズムと共通する点がある、と語っていたことだ。

カントが重視したような一般性や普遍性というものに対して、スピノザの考え方は、個への固着ということ、つまりコナトゥスを重視する。そこから、個人や集団(民族など)の「感情」や「情念」のようなものを(理性に対して)強調する考え方が出てくる。それは、マキャベリズム、もっとはっきりいえば帝国主義・資本主義の論理に回収されるものだと、三木は言いたかったのだろう。

それに対して、三木が現実に提示しえた代案は、「東亜協同体論」のようなもので、やはり帝国や資本の力を脱しえないものだったことも、僕たちは知っている。

とはいえ、三木が、スピノザの思想が歴史のなかで持ち得る危険性を、鋭く見抜いていたことも確かだ。

 

 

しかし、ガタリがこうした反人間(中心)主義的ともいえる思想を形成していった背景には、精神医療の現場における(しかも患者たちの立場に重きを置いた)運動の実践があったはずだ。つまり、言語を占有する「個人」として相互的に承認し合える者だけが支配する(空虚な)社会への異議、変革の意思というものが、彼の思想の底にはある。

その意味で、特に本書の第一部に記された、次のような政治的・運動論的な発言に立ち返って、ガタリの言っていることを解釈する必要があるのだと思う。

 

『重要なことは行動を導いたり解釈したりしようとは決してしないことである。集合的言表行為が失調をきたし、その集団が内閉したリーダーシップをとろうとするなら、そうした集団は解体した方がいい。集団的言表行為の行動規則は、欲望の集団的言表行為のプロセスに絶対に取って代わろうとしないことである。そして、そのために、社会的領野の欲望の経済のなかで重要な役割を果たすいかなる記号化の様式とも断絶しないことである。そうした記号化の様式は、個人、身体、観念形成の過程、知覚、等々といった次元で介入するものであり、したがってそれが<理解可能>であろうとなかろうと、あるいはそれが<大義>の顕揚にとって有用であろうとなかろうと、社会的無意識の解明のために絶対に無視してはならない。(p97)』