「聖火」雑感

今朝(25日)の毎日新聞「オピニオン」面の「論点」というところに、「聖火にみるオリンピックの現在」と題して、「オリンピック評論家」の伊藤公、「国境なき記者団」事務局長のロベール・メナール、スポーツジャーナリストの青島健太、各氏の意見が載っていて、とても考えさせられる内容だった。


まず伊藤氏の文章を読むと、聖火リレーが世界中を回るという企画は、国威発揚を狙った中国のごり押しのようなもので、こんな不自然な形をとったことが、混乱の拡大を招いた、という見解であった。
また、これをとめられなかったIOCにも大きな責任がある。たしかにアテネ五輪のときも、聖火リレーは各国を回ったが、ギリシャでの開催であったあのときとは事情が違う。今回は各国をリレーが回るという形式自体がもともと政治的なセレモニー色が強く*1、だからこそ抗議行動の標的とされたのである。
こういった主張だった。
これを読むと、今回の事態の拡大の最大の責任は、五輪の聖火リレーの混乱という一事に問題を限定しても(つまり、チベットの情勢の責任とは切り離して考えても)、やはり中国にあり、またIOCや世界のスポーツ産業のあり方にもある、と再確認できそうである。
「混乱が起きること自体がそんなに悪いのか?」といった論点(裏返せば、今のオリンピックを成立させているような「秩序」は無条件に善なのか?)もあるだろうが、まあ、伊藤氏の論は、今回に限らず五輪の政治利用があまりに露骨だと、こういう逆効果も当然ありうる、という指摘としてなら分かる見解だ。
抗議したい側も、当然いろんな政治効果を狙ってくるわけだから(そのこと自体は非難できないだろう。)。


さて、その抗議行動を国際的に行っている代表的な一人、メナール氏の文章を読むと、今回各地で行われている抗議行動そのものは、民主主義で認められた当然の権利である。だから今後もガンガンやっていく。
まあ、こういう趣旨のことが書いてある。
ぼくは、この人の政治的な立場や背景をよく知らないが、「ガンガンやる」こと自体は、きっといいことだと思う。というか、「ガンガンやっちゃいかん」という方が嫌である。
また同氏は、ベルリン五輪のことも例に挙げて、オリンピックや聖火リレーは、今回のような世界中を回る形をとらなくても政治色の濃いものだという、よく聞かれる意見も述べている。
そして、中国政府の意図と商業主義とがあいまって、コースが広がったことが、自分たちの抗議行動にも場を提供してくれることになったと、正直に書いている。
ただ、フランスで起きた混乱については、まずかったと思ってるようである。これは、中国との関係を修復しようとしてるサルコジ大統領への配慮かもしれない。
そして、中国国民が、すべての情報を統制なく知らされたときに、どういう反応が起きるかに期待している、というふうなことも書いていた。


さて、ぼくがもっとも考えさせられたのは、青島氏の文章だ。
その内容に対する賛否というより、自分が考えなかった視点から語られた意見だったからである。
それは要するに、スポーツ(五輪)は実際には政治や宗教によって染め上げられてるけど、それが「非政治的である」ということは、ひとつの理念なのだ、という主張である。だから、たとえ人権のための抗議行動であっても、そこに政治を介入させることはよくない、という意見である。
こうしたことを、実際に長野五輪聖火リレーに参加したことのあるスポーツマンの立場から述べていた。
この言葉には、はっとさせられた。

「五輪は政治の介入を受けない」。それが理念だ。スポーツだけは、政治や経済と無縁に成立しているかと言えばそうではない。五輪の商業主義やコマーシャリズムも十分承知している。ただ、選手が練習に打ち込み、その力を競うのが五輪の目的であることに変わりなく、そこにスポーツへの純粋な思いが込められていることは事実だ。
(中略)
政治的に抑圧されている人や人権が脅かされている人に対して、「スポーツを何より優先すべきだ」などとのんきなことは言えない。だが、国から国へ、世代から世代へ、スポーツが持つ平和への願いやフェアに戦う精神を継承していくのが聖火だろう。(中略)世界中の競技者が参加する場だからこそ、理想を掲げるべきではないか。


ぼくは、青島氏が書いていることの全てに賛成ではない。
「スポーツの純粋さ」と言っても、スポーツがそんなに偉いのかと、運動(身体を動かす方です)嫌いのぼくなどは思うが、しかし「そんなたいしたものではない」からこそ、それを尊重すること、また理念として掲げることにも意味があるのかもしれない。
そしてたしかに、「非政治性」とか「商売でない純粋さ」といった理念の火が、現実には弱ければ弱いほど、その火が持つ意味は高まると言えるのではないか。
五輪が政治利用されていることや、商業主義化されているという現実があるからこそ、その掲げる理念を尊重することには、やはり意味があるのではないか。
ぼくはこれまで、この件について考えるとき、そういう視点を持っていなかった。
青島氏の文章は、「一スポーツマン」という限定された立場からの主張であるだけに、その一点を鋭く突いていると思った。
そしてこのことは、「人権(理念)のための抗議行動を、ガンガンやる」という意志や心意気と、決して矛盾しないであろう。


思えば、スポーツ(五輪)の非政治性という理念が、もっとも現実的な意味を有していたのは、冷戦期だった。
あの頃は、この理念(お題目)によってしか、出会えない人、交流できない人というのが、今よりもたくさんいたのだ。
今、政治利用(国威発揚)や商業主義の汚辱にまみれている、この聖火の理念も、大事に守り育てていくことによって、そうした良き役目を果たすときがあるかもしれない。


上にも書いたように、今回五輪を政治的に利用しようとしているのは、やはりまず中国であろう。
だから、聖火リレーや、五輪自体に対する、またそれをある意味で利用した抗議行動を、「政治を介入させるな」と言って批判することは、当たらないと思う。
そうした行動が、「五輪の理念に反する」という考えは、少し違うであろう。
しかし、どういう行動や思想においても、現実のなかでは見えにくい「理念の火」を尊重するという気持ちは大切だ。
結局、「五輪の理念」という言葉によって語りかけられているのは、そういうこと以外ではないように思う。
よく分からない文章になったが、今のところ、そうしたことしか言えない。

*1:ただし、後述の青島氏は、これには疑問を呈している。