『靖国』関連の二つの記事から

靖国」の上映問題は、あい変らず色んな動きがある。


映画「靖国」:高知の映画館が上映中止 出演の刀匠に配慮http://mainichi.jp/enta/art/news/20080413k0000m040058000c.html


これ、配給会社から要請があったというんだけど、刀匠の人の地元でだけ上映を見合わせる、という配慮の仕方がよく分からないよなあ。
地元で陰口を叩かれるようになったら気の毒だ、ということかな?
そうじゃなくて、上映が契機になって、地元でも論議が沸騰すると、「そっとしておいて欲しい」という刀匠の気持ちに反する、ということか。
そっちだろうな。
いずれにせよ、中途半端な対処、という気がする。


きのうも書いたけど、この問題は「こうすべし」ということが、ぼくにははっきり言えない。
刀匠自身は「圧力があったとは思ってない」と言ってるそうだけど、政治家が電話をかけたりということは、当人の言葉を免罪符みたいにして「圧力じゃありません」と言い逃れられるような性質のことじゃないだろう。
被害者が「暴力を受けたと自覚できないまでに深い精神的な傷を負う」ということは、DVや虐待などでもよく言われることであり、「圧力を受けた側」の言明を、圧力を加えたと思われる側の無実の証拠とするのは、妥当でないと思う。
政治家がアプローチしたこと(それ以外にも、誰かから何らかの働きかけがあっただろうと思う)が、それ自体で「圧力」(暴力)となった可能性は高い。


しかし、当人がそう言ってるわけではないのだから、「圧力がなかった」と(言明どおりに)受けとるわけにはいかないのと同時に、「圧力があった」と決めつけてしまうことにも、ためらいがある。
「だまされた」と言っている、この人の言葉を、まずはそのまま傾聴する必要がある。
そして、「(自分の出演場面を)削除してほしい」という言葉も、「誰かの圧力で言わされてるのだ」と決めつけるような態度は、(「だまされた」と)被害を訴えているこの人の意志や言葉を否定する暴力的なものになるだろう。


きのうも書いたように、こうしたトラブル自体は、ドキュメンタリー映画の作成においては、しばしばあることだろうと思う。
表現する側は、被写体となる側に対して、やはり一種の暴力を加えうる立場にあることは確かだろう。
このことは軽視できない。
だから今のところ、監督をはじめ映画に携わった人たちの判断に委ねる、という風な言い方しかできない。


ただし、「表現者VS出演者」という次元は別にして、「表現者VS排外的な日本社会(orバカ政治家)」という対立の次元においては、ぼくは躊躇なく表現者(監督)を支持し擁護する、と言えるだけである。




もうひとつの動き。


映画「靖国」:右翼団体が試写会http://mainichi.jp/enta/art/news/20080412k0000e040055000c.html

ドキュメンタリー映画靖国 YASUKUNI」の上映を中止する映画館が相次いだ問題で、複数の右翼団体の代表者らが発起人となり、東京都内で右翼活動家向けの試写会をすることが分かった。右翼団体の抗議活動が上映中止の原因というイメージの解消を図る狙いとみられる。発起人の一人は「映画を見ていない活動家も多い。冷静な判断のためにも見てほしい」と話している。


映画館でみんなが普通に見られるのが一番いいとは思うので、とくに誉めようとは思わない(誉めてもいいんだけど)。
むしろ、この話題で気になったのは、記者の記事の書き方だ。


右翼団体の抗議活動が上映中止の原因というイメージの解消を図る狙いとみられる。』は、ないでしょう。
完全に警察目線だもの。
警察の目線と、市民社会の目線とを、こういう記事の書き方が接合させてるんだよ。
「狙いとみられる」と言ったって、「狙い」については、その次のセンテンスで発起人の人が、はっきりコメントしてるじゃないか。
それが「本音」だろうが、嘘だろうが、そのまま伝えればいい。「ほんとうの狙い」なんて、読者個々が判断することだ。
新聞記事は、警察的な物事の見方を、スタンダードとして社会全体に浸透させるための道具ではない。
この段落の記事は、まんなか(二番目)のセンテンスが、まるごと不要である。