違憲議員たちの自覚なき権力と暴力

先日の稲田朋美に続いて、また自民党違憲国会議員の存在が明らかになった。

http://mainichi.jp/enta/cinema/news/20080411ddm041040123000c.html

この問題を巡っては有村治子参院議員(自民)が自身のホームページで、「心外なお気持ちでいることを人づてに聞いていたので、伝聞では国会質問はできないと考え、刈谷さんご夫妻と直接初めて連絡をとった」と、3月25日に刈谷さんに連絡したことを明らかにしている。


一般論として、ドキュメンタリー映画の製作と公開にあたって、作り手の側と、取材され出演者となった側との間に、行き違いのようなものが生じることは、決して珍しくないだろう。
撮影が進む過程でそれが露呈することもあれば、出来上がったものの試写を見て、またそうでなくても時間が経過するにしたがって、出演する当事者の思いに何らかの変化が「自然」に生じるということはありうる。
この映画の監督は、「信頼関係を構築した」という意味のことを、テレビのインタビューで語っていて、それはその通りだろうと思うが、「信頼関係」というものは明文化出来るものでもない。あくまで、一方の側(監督)が、そう感じていた、ということにとどまる。
だから、「表現の自由」がいくら大事だからといって、またこの映画が明白にそれを侵害されているという現実があるからといって、この当事者(刈谷さん)の発言を、「圧力による翻意」と決めつけて、元の形での映画の上映を原則論として主張するつもりは、ぼくにはない。
映画作りに携わった人たちによって、最善の判断がなされてほしい、ということしか言えない。



それはつまり、ドキュメンタリー映画に出演するということは、それだけ人の心の微妙な部分に触れる事柄だということである。
それだけに、国会議員という地位にあり、その限りでの政治的権力を持っている人間が、いま現に上映が危ぶまれるほどの圧力の対象となっているこの映画に出演している「当事者」に、何らかのアプローチをしたということが、許せないのだ。
「何らかのアプローチ」と書いたが、この映画が置かれている状況を考えれば、(自民党の)国会議員による「問い合わせ」が、それ自体政治的圧力の意味を持つことは明白だろう。
受けた当事者が「圧力を受けたとは思っていない」と言明しているといっても、言論・表現の自由を守るべき政治家としてしてはいけないことを、この議員はしたのである。
この議員は、憲法で保障された国民の権利(「知る権利」を含む)を侵害したのであって、国民であるぼくは「侵害を受けたと思っている」のだ。
これは、今回の刈谷さんの言明を受けた映画公開の妥当性とは、別の次元の問題である。


もっとも許しがたいのは、「政治家」の名に値しないこの連中の、自分の職務と権力に対する無自覚さ、「自己の暴力性への無自覚」という最大の暴力性である。
ついでなので、もうひとつ書いておこう。
先日テレビで、この映画の上映が決まった大阪十三の映画館に、右翼の街宣車が来たというニュース映像を見た。
あの街宣車はたしか、あの映画館から歩いて数分のところにある小さな団体のものじゃなかったかと思う。
普段ならわざわざ妨害に来ないようなことでも、これだけ全国的な話題になってしまうと、近傍の団体は、何もしなければ全国の右翼業界から「何をやってるんだ」と非難されるだろう。
嫌でも「行動」しなきゃいかんことになる。
これが講じると、左翼でもありがちなことだが右翼では特にその傾向が強いといわれる「行動の過激さを競う」というマッチョ的な状況に追い込まれる人が出てくる。先の加藤紘一邸焼き打ち事件など、右翼がらみのテロ事件で、よく語られる背景である。
つまり、国会議員による、今回の映画に対するような「問題化」、攻撃目標の名指しは、そのような暴力事件を唆すものであり、真に(右翼以上に)暴力的なのは、この「自覚なき権力者たち」なのである。


ぼくは、稲田某や有村某のような違憲議員を、二度と立候補させ、当選させてはいけないと思う。
この人たちだけが「違憲的」な政治家だというわけでは無論ないが、こうした「自覚なき権力・暴力」を批判する風土を作っていく意味でも、これらの人々には特に厳しい政治的批判を浴びせるべきだ。
また、このような政治家が生み出される背景に、政権与党の体質と、自民党が権力を握り続けていることの弊害があるのは確かだろうから、ともかく次の選挙では、絶対に政権を交代させるべきである。
民主党に入れよう」という気に、今回はじめてなったよ。


こうした政治家の存在を許さないことこそが、日本が民主的で自由な国であるという、世界へのメッセージとなるはずだ。