最近読んだ対談記事から

このところ、テレビの報道というのは、事実を(出来るだけ)伝えようとするものではなくて、視聴者が「こうあって欲しい」という願望としての世界像を伝えるものだと、あらためて思うようになった。
そう考えると、たとえば「深刻なニュース」と「ほのぼのしたニュース」との変なバランスも、まあ納得がいく。


以前からそうだったのかも知れないが、最近は、とくにそれが強まってるようだ。
もちろんテレビだけでなく、雑誌とか新聞にもそういう傾向は強まってるだろうが、テレビは影響が大きいから。
ただ、「こうあって欲しい」というのが誰の願望なのかは、ちょっと微妙だなあ。内容については、報道を加工する側の意図も入りうるけど、そもそも報道が事実(現実)を伝えず、願望の世界だけを伝えるものであって欲しいというのは、やっぱりぼくら視聴者自身の欲望でもあると思う。


考えてみると、願望というか、自分の望むような世界の姿しか知りたくない、それを揺るがすような情報は除去してしまいたいという気持ちは、ぼく自身にも強い。
現実はたしかにひどいのだが、ひどくない世界という非現実の像のなかに留まりたいという排他的な欲望の力が、ひとつの圧力のように、自分のなかで強まっているのを感じる。


それで思い出したのだが、先月毎日新聞に、作家の高村薫さんの対談記事が載っていて、今書いたようなことについて、ずいぶん耳の痛いことを言う人だなあと思ったことがあった。
読んでおられない方もあるかと思うので、紹介しておきたい。


高村薫さんと考える:最終回のテーマ 若者と活字文化http://mainichi.jp/select/opinion/takamura/news/20080316ddn010070044000c.html

http://mainichi.jp/select/opinion/takamura/news/20080316ddn010070048000c.html


以下、一部抜粋。

 高村 ウィンドウズ95(注2)が世に出たころから情報通信革命が始まりました。これが将来何をもたらすのか、想像する言葉を大人は持ちませんでした。生み出されたものは、情報だけが山のようにあふれる、まとまりのない社会でした。人は目の前の情報、気に入った情報だけを見て、それ以外は捨てるようになってしまった。


藤原 しかも、知的判断に基づいた情報の選択ではありません。


 高村 情報を言葉によって有機的につなぐ作業を通じて、情報は初めて知識となります。そして世界像を自分なりにつかみ取ることができる。無数の情報があるだけで知識が豊富だと勘違いしてはいけない。自分の気分や感性に合う情報だけを引っ張ってくる人は大人とは言えません。他人の意見を聞き、いくつもの見方があることを知り、それを論破するならさまざまな根拠を積み上げていかねばなりません。それに至るには忍耐、誠実さも必要です。ところが、米国のイラク戦争開始の論理、日本の政治でも道路特定財源暫定税率に関する与野党の論争を聞いていると、自分の都合に合う情報だけで論議をしているのではないか、と思えてしまいます。大きな世界像をとらえないところにまともな論議は成立しません。