禁じられているものは何か

先日エントリーを書いた、宮台・小林・萱野による「マル激鼎談」。正直言って、「沖縄」や「在日」など歴史認識に関心のある人には、血圧が上がるだろうからあまり見ないほうがいいという内容だった。
それと、宮台氏が明らかに司会不向きのせいもあって、間延びした印象があり、じつはいまだに「パート1」の方しか視聴してない。
ただそれでも、興味深いところがまったくなかったわけではない。


ひとつには、はじめのところで小林よしのりが語っている、沖縄の現場に行って感じた異様な感じ、恐怖に近いような違和感というものは、その内容を丁寧に腑分けしないといけないだろうけど、当たっている部分もあるだろうし、なんにせよ、小林自身の枠が揺るがされるようなひとつの「現実」に触れたことは事実のようであり、その動揺というものは、宮台がやったような陳腐な「囲い込み」をやらなければ、また小林がホッとしてそこにとびつかなければ、何か本質的な考えへといたる可能性をもってるものではなかったか、と思う。
あのエントリーでは、そういうことを書いた。


それともうひとつ、パート1の最後の方に出てきた、日米関係をめぐる話。
今日は、こちらについて考えたい。
先ごろ亡くなった宮澤喜一が「アメリカを前にしては、日本にはモラル外交はできない」という、苦渋の本音ともいうべきことを述べたのが紹介され、そのことへの、やはり恐怖に近いような素朴な感覚を小林が「政界の頂点にいくとそういう認識になるものなのか、それともよほどの恫喝されるということか、どうなのか」と語るのを受けて、宮台が「それもあるが、結局日本には、いまさらアメリカから自立しろと言われても、リソースがないのだ」と語った言葉には、説得力があった。
その「リソース」ということだが、「食糧」や「軍事力」といった物質的なものを思い浮かべがちだが、それだけではあるまい。
日本が、それを持つことをアメリカとの関係(依存)の過程のなかで禁じられ、自ら手放し、また奪われてしまった生き抜くための重要なリソース、そのひとつは「交渉能力」、つまり(広義の)外交力であろう。


西山太吉『沖縄密約』は、アメリカとの関係のなかにおいて日本の「交渉能力」が失われていく過程という、この事柄こそを鋭く問題化した本だった。あの本の最大の意義は、そこにあるといえよう。
日本がアメリカから自立(独立)できないのは、そのアメリカとの関係の歴史において、自らが自立的に生きていくためのリソース、とくに外交力を喪失したためである。
「右派」と呼ばれるなかでも、鋭い人たちはこうした感覚をもっていて、そこで対米自立の重要性を説く。
そして、この感覚は、じつは左派の一部にも共通するものである。つまり、元々有していたはずの「主体」として生きる能力を回復したいという願望。そこには、この「主体」そのものに対する疑いとはない。
じつはあの「マル激鼎談」の最初の部分で、小林や宮台の批判がとらえていた正当なものとは、この「右派と左派」に共通した、感覚そのものなのである。
というのは、この「主体の回復」とも呼べる願望には、重要な欺瞞が含まれているからだ。


以前のエントリーに書いたような、沖縄の反基地運動を日本国内の他地域の運動の「テコ」にしようとする左派も、沖縄にこそ日本のアメリカからの自立というナショナリズム的な願望の可能性を見出そうとする右派も、いずれもアメリカへの従属から脱して、自らの「主体」を回復するという願望を、そのまま「沖縄」に投影している。
ここで忘れられているのは、近代国家の成立以後(それ以前のことはひとまず問わないとしても)、自分たちの国である日本が沖縄の自由や主体性を奪い抑圧してきたという歴史であり、またアメリカによる沖縄の「使用」という戦後の状況は、その基本構造と無縁なものではないということである。
つまり、他者の自由や独立を否定したうえで、そうしたことを行ってきた自分たちの歴史性を否認したまま、自分たちの「独立」「自立」を求めるという欺瞞が、まずここにある。
つまり、ここで求められている「自立」のイメージは、自分たちが経てきた歴史との直面を否認したままに作り上げられた、また押し付けられた、作為的な虚像である。
この歴史性の消去(否認)のゆえに、「自己による他者(ここでは沖縄)の支配」という事実性は見えなくされ、だから「日米間」の関係性が、そのまま「沖縄(=日本)とアメリカ」の関係と等しいという認識になる。
沖縄やアジアを支配してきた日本の国家の歴史、ということはわれわれの幻想の「主体」の歴史に、こうした思考は直面することがないのである。
そして、それは直面することを禁じられているということでもあり、日本がアメリカへの従属から脱して生きていくために本当に必要なリソースの剥奪は、じつはここにおいて成されているのである


アメリカが、日本を支配しつづけるためにとった策謀の眼目は、日本を、それが支配や侵略をとおして生々しく関係してきた対象としてのアジアや周辺地域の人々から分離すること、いわばその「リアル」に直面させない、という戦略だった。
アメリカの強い指示のもとにすすめられた日韓基本条約の締結も、また小泉の訪朝で動きかけた日朝国交交渉へのアメリカの牽制(妨害)も、そのあらわれという側面を強くもつ。
そうしたアメリカの戦略は、現実に日本をアメリカへの依存(従属)的な二国間関係の枠内に閉じ込めておくということと同時に、日本が自己の歴史(したがって、他者の存在そのもの)に出来る限り触れないようにすることで、自立のための目に見えないリソース(外交力など)が培われる土台をあらかじめ奪っておく、という狙いがあったはずである。
上に書いたような左派や右派が思い描く、自己の支配や加害の歴史を否認した上に成り立つ「自立」のイメージ(虚像)とは、このアメリカが仕組んだ罠の一部分なのだ。つまり、こうした「自立」を求めていけばいくほど、日本はむしろ周辺のアジア地域との隔たりを増していき、ますますアメリカにとって支配しやすい国になっていく、という仕掛けになっているのである。


沖縄にもどって考えよう。
日本は戦後のアメリカとの関係のなかで、米軍基地の70%を沖縄におしつけることによって、自国の安全(平和)と繁栄・安定を獲得してきた。だが、それはたんにそれだけのことではなく、日本がもともと沖縄をどのように見てきたか、扱ってきたか、ということと無縁であるはずはない。
そこを問わずに、どんな「沖縄論」も「日本論」も成り立つはずがないというのだ。


たとえば、以前に書いたように西山太吉は、『沖縄密約』のなかで、「本土の沖縄化」ということを述べている。つまり、72年の沖縄返還アメリカ側の狙いは、じつは日本の「本土」にある米軍基地を、占領下の沖縄と同様に、米軍が「自由使用」できるようにすることにあった。その目的は、その後の安保変質、そして現在進行中の日米軍事再編によって最終的に果たされつつある、というのである。
西山の論の趣旨は正しいであろう。
だが問題は、そもそもなぜ「沖縄化」と呼ばれる状況が、沖縄にだけ押しつけられてきたかということである。「琉球処分」以降、日本の国家的な支配の下に入った沖縄は、戦争の終結にあたって再び日本(そして天皇)によって処分され、(結果的には)日本の「独立」と引き換えのようにしてアメリカに譲り渡されたのである。米軍による沖縄全土の「自由使用」は、いわばアメリカが日本の沖縄支配に接木したようなものなのだ。
そして、西山が書いているように、「返還」以後も沖縄の米軍基地は日米間の「密約」によって「自由使用」とされ続けてきたのである。
その構造、つまり沖縄を都合のいい「道具」として扱い支配するという構造のうえに立って、日本の「自立」のイメージと願望はつくり上げられてきた。
西山が述べるような「本土の沖縄化」という危惧には、これまで自分が「道具」のように扱ってきたものたちの状況を、まるで「自己責任」か自然現象のようにみなして問題視してこなかったのに、それが自分たちの身に降りかかりそうになった途端に「問題化」して騒ぎ立てる、という態度である。
それがたとえば、生田武志が『フリーターズフリー』創刊号所収の論考『フリーター≒ニート≒ホームレス』のなかで次のように書いている図式と、まったく重なり合うものであることは、言うまでもあるまい。

つまり、今まで不安定就労を女性に任せてきた男性社会が、不安定就労が自分の身に降りかかってはじめてそれを「社会問題」として捉え始めたのである。それに対して、女性労働のマジョリティは昔も今も不安定就労だった。(同誌p242〜243)


こうした対比によって、西山や小林よしのりの語るような「主体」とか「自立」が、いかにいびつな像であり、虚像であるかが、いっそう明らかになると思う。
それは、自分が成り立つために道具や踏み台としてきたものを問わない、見ようとしないことによって成り立つ「自己像」「自立のイメージ」であり、それを見ようとしないという支配者(日本人マジョリティ、男性)の願望は、それをさらに支配するものたち(アメリカ、企業社会)の戦略と完全に重なるのである。


「本土の沖縄化」に関して言えば、復帰以前に、沖縄の状況がそれほどまでひどいのなら、「本土」に米軍基地を引き受けてでもそれを軽減するというようなことを、つまり自分の身と対等であり不可分なものとして考えるような日本人がどれだけいただろうか?
太田昌秀が言うように「世界のすべての土地から基地をなくす」ことが正論であることは争えないが、それとは別の水準で、日本人マジョリティには考えるべきことがあったはずだ。
いまや、今や「本土」も、日本全体が、「沖縄化」を余儀なくされるほどに弱者となったのである。「従属」の一形態でしかないような「自立」の夢(罠)を追い求めて、被支配の牢獄のなかにとどまるのか、自らマイノリティとして生きる道を選んで他者とのリアルな関係を回復(奪還)するのか、選ぶのはもちろんわれわれ自身である。