『眼と精神』その2

眼と精神

眼と精神


読書メモの続き。今回は、二つ目の文章である「幼児の対人関係」(1950年)についてのものです。
前回、この文章のことを講演録と書いたと思いますが、正しくは講義録です。
当時の心理学の最新の知見を参照しながら語られたもの。
たいへん興味深い内容です。


ここでも著者は、「他人との関係」の重要さを強調する。

昨年の研究の結果それ自体が、他人との関係の問題を従属的な問題と考えることを、われわれに思い止まらせています。(p102)

要するに、われわれが世界経験を知的な形で形成する作業は、たえずわれわれの対人関係という感情的形成作業によって支えられているわけです。(p126)

ここでは、知的な理解の世界が、感情的な対人関係の世界に先行されているという考えが語られている。ここに、ファシズム時代の経験の影響を見ることが出来ると思う。


人間の性格における、両極性と両義性の話は、特に興味深いものの一つだろう。
両極性とは、

同一対象・同一存在に対して二つの二者択一的な心像(イマージュ)を抱きながら、それらを結びつけようと努力することもしないし、またそれらが実は同一対象や同一存在に関わっていることを認めようと努力もしないところに(p110)

成り立つものだという。
要するに、善悪などをきっぱり区分してしまう、マニ教的態度だ。
それは、「心理的硬さ」と呼ばれる心理傾向を生むのだが、これに捉われた人間は、『自分の望まないおのれの部分を外部に投影しがち』(p111)であり、

自分の中にもその萌芽があり、しかもそれを自分のものと認めたくないような行為をこの少数者が代表していればいるほど、彼らは憎むべきものとなります。(p111〜112)

とも語られる。
これに対し、両義性は、『大人の現象、成熟の現象であって』、『やさしく寛大なその同じ存在者が、いやらしく不完全なものでもありうることを認めるという点に』(p110)成り立つものであり、『諸矛盾を正面から見据える能力』(p111)なのだとされる。
そして、「両極性」や「心理的硬さ」の持ち主は、事態の客観的な変化や移行を否認しようとする強い傾向がある、ということも述べられている。

要するに、自分の中に極端に烈しい葛藤を持ちあわせている被験者こそが、まさに、外的事物を見るばあい、特殊で両義的・相克的・混合的な性質の状況があるということを認めたがらぬ人たちなのです。(中略)感情的両極性こそ、知的両義性の拒否を要求する当のものです。大ていの場合、知的両義性の強い人は、他の被験者よりも感情の土台がはるかに安定しています。
(p114)

つまり、感情の次元の「両極」的な葛藤が、物事の複雑なあり方の直視・受容を拒ませ、狭小な世界観を生み出す。


次に、「他人知覚」という重要な概念が出てくる。
これは、幼児が(あるいは人間が)、目の前の他人を自分と同じような「心」を持つ「他人」であると知覚することは、どうして可能になるのか、という問題だ。
メルロは、フッサールを引きながら、その理由を、この段階の幼児の生において、自己の身体と他人の身体とは対にされ、その二つ(対)によって一つの行為を成し遂げることが体験される、という事実に求める。

こうして私の志向が他人の身体に移され、他人の志向も私の身体に移されるということ、また他人が私によって疎外され、私もまた他人によって疎外されるというそのことこそが、他人知覚というものを可能にするのです。(p136)

自己や他人というものが絶対に自己意識的なものであって、両者は相互に絶対的独自性を主張し合うものだと初めから仮定してしまっては、もう他人知覚を説明することはできなくなってしまうだろう。(p136)

そして、「他人」の存在を知覚することが、身体的次元に深く根ざしていることを、次のように述べる。

自分が身体を持っているということを意識することと、他人の身体が自分のとは別な心理作用によって生気づけられていると意識することとは、論理的に言って対称的な二つの操作であるばかりか、現実に一つの系をなしている操作なのです。(p140)

つまり、身体の次元における相互性のようなものが、他人及び自己それぞれの独自性の知覚に先行し、その土台をなすと考えられているといえよう。だとすると、この身体的な相互性の次元にこそ、人間を動かす決定的な何かがある、ということになるのではないか?


さて次に、象徴的秩序をめぐる問題が語られる。
誕生からの幼児の身体知覚を探究したこの箇所は、ファシズム体験との関連という面でも、特に興味深い部分だ。
まず、メルロが注目しているのは、生後三か月ぐらいの、自他の鏡像に対する幼児の反応である。
この段階では、幼児は鏡に映った誰か(たとえば父)の姿を、「単なる像」として見極めてはいないと、メルロは言う。
それは、『言わば(実物の)父の分身ないし幽霊』(p151)であり、『準実在性』をもった『妖怪的存在』として知覚されている。
こういう意識のあり方は、つまり「象徴的意識」(p152)の欠如ということである。この時期の幼児には、鏡に映った姿を実在ならざる「単なる像」として、言いかえれば「象徴」として捉える意識が欠けている。「像」を、「象徴」という非実在のものと認識する心的機能(象徴的秩序)を有していないのである。

(この時期の幼児にとっての)鏡像には、成人の空間性とは全く異なった空間性があるわけです。(p153)

この、幽霊的・妖怪的とも、非象徴的とも呼べる独特の空間性は、知能の発達とともに減少し、像を、単なる見かけと認識する、新たな理念的・象徴的な空間性(成人の空間性)が成立するわけだが、成人でも象徴的意識に障害があれば、像と実物との混乱が起きるし、また生後2年以上たっても、この空間性の移行は十分に達成されないのが普通である。
要するに、幽霊や妖怪は、われわれの深いところにいつも潜んでいて、『像はわれわれに信じることを促すような或るもの』(p157)として常に機能しうるのだ、とされる。

像は独特なやり方で、そこに表現されている人物に肉体を与え、その人物を出現させるのであって、それはちょうど降神術によってテーブルの中に精霊を出現させるのにも似たことなのです。(p158)

そうした像の呪術的・魔術的な力というものは、実は「知的批判」によって解消されるようなものではない。

すでに見たように、ヴァロンの言おうとする趣旨は、知能の発達は<鏡像>に対して一度成就されればそれでよいというものではなく、<影>のばあいにはまた改めてやり直されなければならぬ、ということです。だが、それは、鏡像の漸進的な還元が実を言えば知的現象ではない、と主張していることにほかなりません。(p158)

ここでは、ファシズムの(克服の)問題が考えられているのだと思う。


この後、ナルシズム的な像の形成という自我の発達の新たな段階(この段階は、日本では弱いか、欧米とかなり異なっている気がするが)について語られた(p163)後、次のように述べられる。

鏡像に対して、初め単なる反射という価格、本来の意味での「像」という価格ではなく、自己自身の分身という価格を与えたあの呪術的信念は、決して完全に消えてしまうものではなく、それは成人においては情動というものに形を変えていくのです。(p166)

このことは、鏡像の捉え方の変化(幽霊から単なる像へ)をもたらす空間性の変容ということが、知性や認識の次元の進歩によるものではなく、

情動的経験の偶然性につねにさらされている<われわれの存在の仕方全体>の構造的変化(p166)

であることを示していると、メルロは書く。
こうして、感情と情動の次元が、知性の次元より重要だという考えが、恐らくはファシズム期の体験に裏付けられて述べられているのだが、メルロにおいてそれは、対人関係(自己と他人の分離できない、個に先行するような関係性)の根源的重要性という発想につながるものなのである。

われわれが普通に知性と呼んでいるものは独特なタイプの対人関係(つまり「相互性」という関係)を指す別な呼び方にすぎない(p169)

情動を抑制し、他人との「共存」を可能にするような関係性こそが、「知性」の名で呼ばれ、「相互性」と呼ばれる。

ここでの綜合は、知的綜合ではなくて、他人との共存に関する綜合です。(p169)

ここが非常に重要な点であるが、共存を可能にするもの(また不可能にするもの)は、本当は知性ではなく、感情的な関係の次元に存するのだ、ということである。

もしそうしたいわゆる像の征服が、他人や世界に対するわれわれの生活関係の一切を含む全体的過程の一面に過ぎないと仮定すれば、<その過程は一度実現されると言わば自律的に活動するものでありながら、しかも同時に、まことに偶然的なわれわれの対人関係に関与しつつ、いろんな形で退化したり逆行したりすることもありうるものだ>ということが、やすやすと理解できるようになりましょう。(p169〜170)

前回、ハーバーマスの名をあげたが、考えてみると、ハーバーマスの思想とメルロの思想との間には、大きな違いがある。それは、前者があくまで知性を重視するのに対して、後者は身体や感情(情動)の次元こそを重視するという点だ。それは同時に、メルロが情動の偶然性(不安定性)を重視したことを意味していると思う。


次に、「癒合的社会性」と呼ばれる発達の新たな段階が述べられていくが、ここでは、嫉妬や転移、模倣、ミメーシス、それに共感といった幼児に多くみられる心理現象が、身体性に根ざした「自己と他人との混同」という概念によって説明されている。ここも、ファシズム大衆社会の問題に関わりの深い箇所だろう。

ねたみは本質的に<自己と他人との混同>である。(p173)

こうした癒合的対人関係が示しているのも、象徴的意識の弱さ、退行という事態である。
だがメルロは、そこで知性や象徴性の強化によって、こうした退行を克服することに大きな意義を認めず、そうした現象は身体的関係や感情の次元の重要さをこそ表わすものだと考えるのである。


「幼児の対人関係」についてのメモは、以上です。