領土について

このところの尖閣諸島北方四島をめぐる問題に関して、前原外相の強硬な態度・発言が、また注目を集めている。
以前その前原が、北海道に行った時、北方領土問題について「ロシアは北方四島を不法占拠している」という発言を行ったことがあった。
ずっとこの言葉がひっかかっていたのだが、今回調べてみると、元々麻生元首相の発した言葉なのだった。
http://www.47news.jp/CN/200910/CN2009101701000221.html



ニュースになるほどだから、やはり異様な、強い響きとして受け取られた表現だろう。
ロシアが北方四島を領有している事実をどう考えるかではなく、とくに「不法占拠」という表現が用いられたことが耳目を引いたのである。
「不法占拠」ということは、相手の行為を法の名によって断罪しているわけだ。
自分と相手とを共通に裁ける法があり、その法に適っているか否かを判定する権限・能力は自分にあるとした上で、相手がそこに場所を占めていることを断罪する。
この場合は、国際関係(領土問題)においてこの表現が用いられたことで、この言葉の断罪的な響きの強さが際立ったのだ。ここでは国内法が問題になっているはずはないし、国際法を念頭に置いてなされた発言でもないだろうからである。


いや、というより、「不法占拠」という言葉には、その場所を自分自身が占有することの正当性、自分が拠っている法(ルール)の普遍的な妥当性を、いわば遂行的に確立するという、強い意図が込められているのだと思う。
つまり、「不法占拠」という用語を好んで使いたがる人の心中にあるのは、自分が現在得ている利益や地位が「合法」であると言い募りたい、そのことを揺るぎのないものにしたいという心理ではないか、と思うのである。
他者の行為(領有)が「不法占拠」だという言葉は、裏面において、自分たちの占有は合法であり自然であり正義だ、という強い主張を含んでいるのである。


上の前原や麻生の発言についても、日本が現在の北海道の地を「開拓」し占有したときに行った、とりわけ先住していた人たちに対する略奪的な行為を忘却、正当化したいという意志と結びつけて考えることが出来る。
特に目立った略奪(暴力行為)ということでなくても、近代的な所有(領有)の枠組みに、新たに周辺的な地域を組み込んでいく、同時に、そこに住む人たちやその場所に関わって生きる人たちの生活を、その枠組みのなかに否応なく取り込んでいくことの暴力性というものがある。尖閣諸島のような無人の島でも、そこを漁場にしていた人たちや航行者、そして近隣で生きる人たちの生活を、近代国家と近代的な所有形態への組み入れという形で、我々近代以後の人間は収奪し、損なってきたはずなのだ。
その結果獲得されている自分たちの地位や財産(国家的には領土)が奪われたり、脅かされていると感じるとき、人はそれに反発し、自分たちの領有の正当性を言いたてようとする。


尖閣諸島の問題に関しても、いずれも70年代に書かれた、対立する意見の二つの論文、井上清<「尖閣」列島−−釣魚諸島の史的解明> と、奥原敏雄「動かぬ尖閣列島の日本領有権」とを対比して読めば、問題になっているのが、現在の国際法の論理の根幹をなしているらしい近代的な所有・占有(同時に略奪)のルールと、それ以前に働いていた国際関係のルールや、人々の生活のあり方との対立・齟齬の問題であるらしいことが分かる。
井上が主張する、この島々は元々中国領であり、尖閣諸島の領有についての日本の論理は植民地収奪の歴史を正当化するものに他ならない(それゆえに現在・未来の軍備拡大・再侵略にもつながる)という見解を、奥原は現在の国際社会の秩序を形成している論理(「無主地先占の法理」)の立場から、頑として認めないのである。
今日においては無論のこと、70年代においても最もなすべきであったのは、この現在の国際社会の論理、つまり土地は元来誰かに、人間(とりわけ個人)に、そして固有の国家に帰属するべきものとして存在しているのだという前提の、批判的な再考だったはずなのに(この意味では、井上の「中国領」だという主張の仕方にも、今日の視点からすれば疑問の余地があろう。)。






だが今日起きているのは、たんなる国家間の係争という事態だけではなく、さらに根本的に、近代的な国家や個人・法人による所有のルールそのものの変更、という事態でもあるだろう。それは、「新自由主義」という言葉と無縁ではないだろう。現代の人々が直面している危機(不安)の本質は、むしろそれであり、ナショナリズムも、この不安への反応として駆り立てられている部分がある。
実際、領土問題についての中国政府の主張が植民地支配への批判とどれだけ関わるものかは不明だし、中国のナショナリズムの全てを日本が植民地支配を清算していない(そのこと自体は事実だが)への反発・非難に還元することにも無理があろう。
グローバル化した現代の世界では、どの国家・集団も、また誰もが不安定な競争のなかで、自分の利益や地位の正当化に向かって狂奔しながら生きること(その意味で、いわば帝国主義化した個人であること)を免れないからである。


「不法占拠」という言葉を使う政治家が支持されるのは、そうした言葉が、自分が置かれている不安定な所有の状態への不安と共に、その所有にまつわる後ろめたさをも解消したい(否認したい)という、人々の密かな欲望に訴えかけるからだろう。
現在の「領土問題」は、人々の「所有」の正当性に関する新たな根拠付けへの欲望(と不安)、あからさまに言えば、略奪と占有についての新しいルールへの強い要請に、訴えかけるような形で世論形成がされているのである。
自分たちが行った過去の略奪や占有を忘却して、現状を正当化しようとする権力的な意志と、その権力によって切り崩されていく生活の現状への人々の不安とが、巧妙に結び付けられ、あるいはすすんで縒り合されている。
ここでは、大衆はたんに不安に付け込まれて権力に利用されるだけの存在ではなく、むしろ権力との同一化を積極的に活用して、自分たちの権益を確保すると共に、後ろめたさを否認してしまおう(捨て去ってしまおう)とする狡猾さの持ち主でもある。






「領土」の問題を考えるとき、まず問うてみるべきなのは、自分たちの側が「われわれの領土だ」と言いきれる歴史的・倫理的に正当な根拠が、そこには本当にあるのかということであり、その問いを通して、そもそも土地というものが何者かの所有に帰するということの暴力性を自覚するということこそ重要だ。
「領土(問題)」という概念がはらんでいる暴力性を自覚することからしか、そうした問題の枠組みを越えた(つまり真に平和的な)解決策への展望は、生まれないはずだからである。


尖閣諸島の問題について言えば、たしかに、日本政府も中国政府も言っていることは基本的には同じであり、また日本の領土ナショナリズムも中国の領土ナショナリズムも、やはり同じことしか言っていないと言える。
つまり、「そこには国境があり、その島はどこかの国に帰属する」ということである。
だからここで、これらの島々を、明確な国境を引くことのできないグレーゾーンのようなものと見なして、分かち合いの努力を提唱し、そこから国家や国境というものの虚構性、そして国家の暴力性への自覚に至るという方向は、正しいものにみえる。
私自身、国家や国境というものは、たしかに必要な虚構ではあるかも知れないが、それに同一化することによって血を流したり危険を高めたり、もしくは基地や軍備を増強したりする程に重要なものではない、と思う。
つまり、国家や領土という虚構(装置)と、人命とでは、人命の方が重い。
だから、国境という装置を捨てて、ここではグレーゾーンによる解決策が求められるべきだ。


だが注意すべきなのは、われわれがそのような普遍的な視点を獲得する道筋においては、われわれ自身の中にある、所有にまつわる歴史的な後ろめたさの否認と、生活の不安定さの解消への欲望とを、常に自覚している必要がある、ということだ。
そうでなければ、国家や国境の虚構性を暴き、他者のナショナリズムの欺瞞を批判する言説は、レイシズムナショナリズムの新たな枠組みの中に飲み込まれてしまうだろう。つまりは、略奪と所有の、新たな血塗られたルールの確立に、寄与するだけに終わるだろう。
われわれはいつでも、われわれ自身の不安や愚かさや狡猾さ、つまりいい意味でも悪い意味でも「弱さ」に向き合うことから始めねばならないのだ。
たぶんそれが、「倫理」という言葉の重要な意味のひとつである。


現在の問題に関しては、なによりも、相手国の「不法」さを非難することが、自分たち自身の過去と現在の欺瞞や暴力性を押し隠す手段にされるべきではない。
この自分たちの過去と現在の暴力性への自覚ということは、日本と周辺地域との関係においては、日本が過去の暴力に対して十分な清算や方向転換を行っていない国であるだけに、いっそう重要な意味を持つ事柄だといえる。
このことは、70年代から少しも変わっていない。
変わったのは、その不安を覚えさせる事実を否認し抹消したいという国家的な欲望が、もはや切実な個人的な思いと判別しがたいほどに、われわれに内面化される社会状況が作られつつある、ということだけである。