中村雄二郎氏の感情論

先日、この記事のなかで、こんなことを書いた。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20110109/p1

私は、自分の経験に関連づけて、これを「感情の問題」と言う風に決め付けて言っているわけだが、「いや、それは感情の問題ではなく、フェミニズムなり朝鮮人なりの側に、反省するべきものがあるのだ」という反論もありうるだろう。

ただ私は、それよりも、それが「感情の問題」だからこそ重要だ、と言えるのではないかと思うのだ。


こう書いたとき、念頭にあったのは、去年読んだ中村雄二郎氏の著作のいくつかであった。
そこで、同氏の『共通感覚論』と『感性の覚醒』という二冊の本の、「感情」について書かれてるところを見返してみた。

共通感覚論 (岩波現代文庫―学術)

共通感覚論 (岩波現代文庫―学術)


感性の覚醒 (1975年) (哲学叢書)

感性の覚醒 (1975年) (哲学叢書)




あらためて見返してみると、79年に単行本として出版され、後に文庫化された名著『共通感覚論』は、そのタイトルの通り「共通感覚」というものがテーマになっているためか、「感情」に関する記述は意外に少なかった。
以下の箇所が、もっともまとまった記述ではないかと思う。

ところが、そのような理性(それは悟性とも言われる)に対して、さまざまな具体的な感覚内容との結びつきを絶たずそれらを保存しつつ、感性的なものがみずからまとまり、高次の秩序をつくる場合がある。私たちはそのような場合として、すぐれた意味での<感情>をとらえることができる。情動や情念に対してそれらと区別して感情と言われるものは、いっそう全体的であり、全体化をとおして内的秩序を形づくる。そのようなものとして、感情は、何よりも共通感覚にもとづいている。それは、私たち一人ひとりのうちで下意識的な制御をともない、高度の知覚や判断の力も含んでいる心の統合的な働きである。(悟性と区別された、すぐれた意味での理性とは、この感情に近い。)  (岩波現代文庫版 p202)


大事なことが言われてるようだが、これだけではよく分からない。
この本に先立って、75年5月に出版された『感性の覚醒』では、「感情」はもっとしばしば登場する。
この本の第一章では、「情念」や「情動」に対して、それらがロゴスの働きによって秩序づけられたものとして、積極的なものとしての「感情」が捉えられている。「情念」や「情動」は、ロゴスの働きにより秩序づけられ、自覚化されて「感情」となるのである。
ただし、このロゴスというのは、理性や論理の同義語ではなく、もっと広い概念だということが書かれている。
そのロゴスの秩序づけによって、感情は(自己)形成されるわけだが、それについて、以下のように述べられる。

したがって、共通感覚との結びつきを強く持ったものとして感情は、理性のようなかたちでの純粋な自律性を持たないかわりに、別のかたちでまとまりと秩序を持っているわけである。一つにはそれは諸感覚と身体の全体性を基礎としたまとまりであり、もう一つには感情の同じ「型」や「様式」を共有しうる人々から成る共同性を基礎としたまとまりである。理性はその持つ自律性と普遍性によって閉じられた共同体の壁あるいは枠をつぎつぎに破って、より開かれた世界に出て行く。そして、それによって、異なった文化や集団に属する人々も、互にその言わんとすることを概念的に理解しあうことができるようになるのである。つまりそこでは、概念的コミュニケーションが成り立つようになる。これに対して感情は、たとえどんなに広い範囲の人々の間に共通して見られる場合であっても、それは或る集団のなかで、つまり共同性のなかで成り立ち、同時にまた、逆に共同性を支えているのである。(p93〜94)


気が付くのは、ここでは、「感情」と「理性」というものとを対比的に考えるにあたって、「共同性」ということが重視されていることである。
中村のいう「共通感覚」は、普通にこの言葉から連想されるような社会的常識とか共通認識ということとは、やや違うはずだが、それでも「感情」ということに関わってくると、どうしても「共同性」という問題が浮上してこざるをえない、ということらしい。


この後、スピノザの思想が検討される章があるのだが、そこでは、スピノザの「同類感情」についての考察が、ルソーの感情論につながるものとして重視されている。
そのことを述べた後で、こう付け加えて書かれている。

しかもスピノザは言っている。人間と人間とを結びつけるものは、同類であることではなくて同類の「感情」である。われわれは自分たちに似ているものがあっても、それに対していかなる感情をも持たないことがありうる。しかしそのものが或る感情に動かされるのを想像するとき、ただそれだけでそれと似た感情に動かされるのであると。(『エチカ』第三部 定理二七) (p123)


この文章(スピノザの洞察の祖述)は、ぼくには「感情」(同類感情)というものの恐ろしさをも述べたものであるように思える。
人は誰かを「同類」だと感じられれば、(たとえ相手が人間でなくても)強烈に感情を動かされるということがあるだろう。しかし、そう感じられなければ、その「誰か」が人間であるとしても、まったく冷酷に処遇するということがありうる。
そのような事態が生じるのは、社会においてわれわれが「感情」という紐帯によって結び付いているからである。
そのように言われていると思える。


さて、中村にとっても、「感情」とは、単に個人的なものではありえなかった。
『感性の覚醒』の四つ目の章である「感情の共同性と社会理論」で展開されるのは、このテーマである。

感情はきわめて個人的なものと考えられることがある。内面のひそかな感情というものもたしかにあるだろう。しかし一般に、感情は個人的であるよりもむしろ集団的なものなのである。個々人の感情はただそれだけで自立しているのではなく、なんらかの意味で、その人の属する集団によって支えられ、条件づけられているのである。自分ではまったく自由な感情だと思いこんでいるものであっても、その属する集団の共同感情によっておのずと方向づけられ、型を与えられているのである。そのような共同感情から自由になることは、ふつう考えられているよりもはるかに難しい。たとえば個々人が共同感情から自由になろうとして反逆する場合でも、その反逆の仕方そのものが共同感情によって条件づけられているのである。(p160)


そしてこうした「共同感情」によって形成されている人間の感情と社会のあり方について、もっとも注目すべき考察を展開した人として、いよいよルソーの名があげられることになる。

権利の譲渡による権利の確立、自由の放棄による自由の確立という社会関係に固有なパラドックスとディアレクティックは、ルソーによって立入ってとらえられた。「必要」(欲求)と「同化」(共感)の原理による人間関係、社会関係の分節化、体系化は、ほかの誰よりもルソーによって理論的にとらえられる途が開かれた。そこには、ホッブズのように「欲求」を単に物体的な「運動」に還元するだけでなく、広く感情や感性の世界を開いていく営みがある。社会関係、人間関係を物体関係としてではなく豊かな感性的存在相互の関係としてとらえて行く営為がある。
 ホッブズが生命体としての自己保存と自己拡張の「欲求」を人間にとってもっとも本質的なものとしてただ個体的にとらえたのに対して、ルソーは人間が個人的存在であると同時に集団的存在であることを、感情の次元そのものではっきりととらえたのであった。(後略)(p174〜175)

(前略)ルソーはむしろ感覚や感情に固執することによって、その態度を貫くことによって感覚や感情のうちにロゴス(理法)を見出すことになった。感覚と感情のロゴスは、ルソーが自己自身の感覚や感情を大切にし、それらに即してものごとをとらえ、考えて行ったことのうちに体現されることになったのである。(p177)


こう見てくると、冒頭に引いた『共通感覚論』における、中村の「感情」についての記述が、実は社会や共同性のテーマに深く関わるものだったことが分かると思う。
「感情」がおのずから秩序を形作るということは、「感情」の次元が抑圧されたり操作されたりすることなくきちんと組み入れられた形での社会関係を作り出すために、必要なことだったのである。
そして、人間(個人)は共同感情からけっして逃れられないものであるがゆえに、そのような、「感情」の次元をきちんと組み入れた社会の形成は、また諸個人の良き感情をも保障するだろう。
中村はその可能性を、ここでルソーの思想のうちに見ていたのだと思う。


とくに結論めいたものも、メッセージもないが、この記事は本の紹介のようなこととして、これで終り。
ルソーや、『エチカ』の感情論も、近々読み返そう。