競争重視の教育、ここがよくない

先日のエントリー、『競争を望むのは誰か』のブクマコメントより。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080210/p1

ruletheworld
『自分の好きなことを学びたいという意欲は、「学力のアップ」ということに重なるとは限らない』重なっている人間の邪魔をせず、その後彼らが外国と競争して得た外貨を将来タカらないのであればいいんではないかと


まず言うまでもないことだが、「成績や効率のみを優先する教育システム」*1、たとえば現在導入が考えられている形での学力別クラスのような仕組みの害は、学力(成績)が「高い」、「低い」に関係なく、その教育を受けるすべての子どもに及ぶはずだ。
これは、「成績や効率のみを優先する教育システム」、言い換えれば競争重視のシステムに限らず、どんな教育システムでも同じことだ。悪い点があれば、すべてのメンバーがその影響を受ける。
システム全体が歪んでいるのだから、これは当然であろう。
もちろん、それをくぐりぬけて悪影響から逃れる個人もいるだろうが、それは(ここで問題にしているケースでいえば)学力の高低とは直接関係ないだろう。
悪影響の受け方は、学力の程度によって違うかもしれないが、基本的には全ての子どもが影響を受ける。


その一例として、「学習意欲」の問題がある。
全ての子どもが成績のアップにつながるような方向に「学習意欲」を過剰に水路づけられているのである。つまり、このシステムに入っている時点で、もともと「意欲」は、間違った方向で圧力を受けている、ということである。
そのうえで、それに適応して成績が上がろうが、適応できなくて成績が下がろうが、「意欲」が間違った仕方で変形されている(歪められている)ことには変わりがない。
無論、教育だから、なんらかの変形が加えられるのは仕方ないのかもしれないが、ぼくが言っているのは、その圧力のかかり方と方向に異議がある、ということである。
上記のコメント中の表現を使うなら、「意欲」と「学力のアップ」が「重なっている」と思っている当人もやはり「意欲」は不当に損ねられているのであり、不幸なのである。


次に、というか上の事情によってさらに強化されるであろう状況に関するのだが、やはり根本的なこととして、この教育システムが、どういう社会を作っていくことを目的にしているか、ということである。
収入、所得に応分の差があることは仕方ないとしても、当然なされるべき再分配に「勝ち組」の人たちが応じないで済ませるような社会の形成につながるのであれば、この競争重視の教育システムによって、どれだけ国や企業の生産力なり経済力なりがあがろうが、このシステムは駄目である、というのが、ぼくの基本的な考えだ。
どうも今考えられてるシステムは、そうした良くない社会の形成を意図しているらしく思える。だから、ぼくはこのシステムの推進に反対である。


ついでのようだが、といっても実践的にはもちろん大切な点として三番目に、ところでこのシステムによって実現が意図されているような労働力や生産体制は、経済的な面においても、この先本当に有効なものであろうか、という疑問がある。
こうした「成績や効率のみを優先する教育システム」を導入したがってるのは、日本の財界、産業界なり、官僚たちであろう。
今の日本経済の状況、先行きを見ても、また今後の世界のあり方の展望ということから言っても、この人たちの方針を支持し、信頼する気には、とてもなれない。
外国の事情をみても、こうした競争重視の教育システムが、国や社会全体の生産力や富の拡大にとって有効であるかどうかは、疑問視されはじめているようである。
世界に通用するような独創的な仕事をする能力を持った人が、たんなる「秀才」で終わってしまうということが、さらに続いていくのではないかと思う。
この点に関しては、「学力別クラス」の活用の可能性ということも含めて、競争偏重に偏らないような改良のための議論が、今後なされて良いと思う。
ただし、その場合でも、先に述べた、どのような社会を作っていくのか、という教育の目的に関する議論の重要性を忘れてはならない。


最後に、学力別クラスと、そうでないクラスのあり方と、どちらが子どもにとって辛くないか、ということは難しい問題だろう。
いろんな学力の子が混じっているなかに居ることも、(ぼくがそうだったような)「出来ない子」には、やはり辛いであろう。
学力別でない現在のクラスのあり方、教育のあり方にも、「平等」という理念とは裏腹に、さまざまな矛盾や問題があることはたしかである。
ただ、そうした矛盾を解決する方法が、橋下知事が提示している方向のなかにあるとは、どうしても思えないのである。

*1:うまい言い方がないので、こう呼んでおくが、教育における「効率」そのものを否定しているわけではない。余裕を生むための、したがって良き「質」の向上につながるような「効率」の追求は、必要かもしれない。