続・暴力や虐待について

先日、暴力とか虐待についての記事を書いたけど、このテーマは書きにくいし考えにくい。
もう少しすすめてみる。


なんとなく人間には、というより自分の中には、自分や他人の(精神的にも)弱い部分や柔らかい部分を攻撃したくなる衝動があるような気はする。それがフロイトの言う「攻撃衝動」だとすれば、それは自分の「中に」あるとも思える。
しかし、そういうものが発動するときに、自分のなかで何かが遮断されているようでもある。だから、その衝動は自分の「外」から来る、という感じもある。
フロイトはそこを、人間の内部にある「欲動」として捉えたのだろうが、内部にあるとは言い切れない、というのがぼくの実感である。


しかし、内部にあるものだろうと、外から来るものだろうと、それが自分がこの世界で(他人の中で)存在することにおいて本質的な要素(力)をなしていることは否定できないのではないか、とも思う。
その力の、ひとつの現れ方として、さまざまな暴力(とか欲望)を考えるべきだ、ということか?


ここをもう少し展開してみよう。
暴力(もちろん性暴力も含む)とか虐待といった行為をする場合、「自分のなかで何かが遮断されている」感じがする、と上に書いた。
「遮断」というと、自分にとって本質的でない、ネガティブなことのようである。
だが、そう言い切れない気もする。
むしろ自分自身との遮断ということが、われわれが生きていること、とりわけ他人と共にこの社会で生きるということの根底に関わっているのかもしれない。


前のエントリーで「うごめいているもの」と書いたが、その力は、私を突き動かし、日常では考えられないような行動をさせる。つまり、「日常の私」に対する「侵犯」の力というものが、そこにはある。
その力がなければ、われわれの生は力を失った、まったく非社会的なものとなる他ないのではないか。
裏返して言うと、われわれの生存は、不可避的にそういう「侵犯」的な性格、根本的な暴力性を帯びているものなのではないか。


私が自分から「遮断」されることによって生じることになる暴力や虐待といったものは、その行為自体としては無論許されないものであるが、その根底にある(私にとって他なる)「力」(暴力性)は、われわれが生きること、そして社会を形成していくことを可能にする唯一のものとも言えるのではないか。


倫理や責任といった事柄は、(たぶんカントが考えたように)、この私にとって見知らぬものである「力の源泉」、つまり「うごめいているもの」との関係において見定められていくしかないものなのだろう。