「高度な自治」を目指すこと

ある地域をある国の領土として認めるかどうかということと、その地域に先住していた人たちの権利をどう考えるかは、当面はまったく別のことだ。


たとえば、ぼくは北海道を日本の領土であると思うが、日本が先住者であるアイヌの人たちを迫害し、その権利を否定して略奪を行ったことは、明らかな事実だ。
なかでも、最大の侵害は、たとえば「権利」とか「所有」とか「独立(国家)」といった近代的な概念を押しつけて、その枠の中でしか自分たちが当たり前に生き抜くための主張を出来ないようにしてしまったことである。近代国家による侵略・支配とは、常にそうしたものである。
侵略・略奪される前に、その人たちがそのなかで生きていた生のあり方を破壊してしまったことを含めて、これらの人たちの「権利」や生活、生涯は尊重されなければならない。
だがそれは、「独立」のような形態によって保障されるものであるとは、必ずしもいえない。


チベット問題で、ダライ・ラマが「独立ではなく高度な自治を」と言うのは、「最善の策を中国に呑ませるのは困難なので、次善の策を」ということだけではないであろう。
重要なことは、国家という暴力の普遍的な形態に対して、人々(われわれも含めて)の生をどのように守っていくか、ということだ(たとえば、日本国憲法、とくに第25条は、この意味で重要なのだ。)。
「独立」という志向、選択が、結果的に、この暴力の強化につながる危険は、十分ありうる。
「高度な自治」こそ、あらゆる国家権力への、最強の対抗手段である可能性はある。そのことを、われわれこそが、もっともよく自覚するべきなのだ。


われわれは、「領土」という概念の否定に、最終的には向かうしかない。
そうでなければ、「国家」の支配は、したがって諸国家の支配もまた、常にわれわれに内在して、われわれを縛り続ける。
「高度な自治」という戦略が、ひそかに狙っているものは、たぶんその仕組みからの脱却である。
そのような戦略に連帯するための、唯一の有効な道は、無論われわれ自身が、この自分の国の中で「高度な自治」を実現しようとすることである。