より良いこと

きのうのエントリーのブックマークに次のようなコメントがあった。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080303/p1

「人命の軽視ということを結果せざるをえないはずだ」戦争は「人命」という概念を殺すものではなく、身体を持つ「敵」を殺すもんだから違うと思う。「敵」の定義がおかしいというのは往々にしてある事だけど。


これは大事な点だと思うので、少し考えを書いておきたい。


「敵・味方」ということと、「人命」ということとどちらを根本的な水準と考えるかということである。
たしかに、敵・味方に関係なく人命を奪うことを目的に掲げている軍隊などないだろう。だが、人を殺傷する戦闘行為において「敵・味方」という区別をしている時点で、すでにこの組織にとって「人命」というものは軽視されていると、ぼくは考えるのである。


ところで、このようにあらゆる軍事組織が「本来はあるべきでないもの」だと考えるなら、『現在の世界では、たしかに国防上の組織は必要だろう。』*1と書いたぼくの文章の論旨から言って、かならずこの「本来はあるべきでない」仕事に従事せざるをえない人が出てくるわけだから、その人たちが不可避的に負うことになる職務にこんなネガティブな意味づけをするのは、あまりにひどいという考えも生じるだろう。


だが、ここが一番言いたいことなのだが、そうした仕事に就いている人(ぼくの前提が正しければ、現状では必ずそういう人は存在する)にとって、その仕事が「本来はあるべきでないもの」だという事実を押し隠しておく、意識させないようにしておくことが、果たして良いことか、ということである。
「これは本来はあるべきでない仕事だが、現状がこのようであるから自分はやむをえずこの仕事を担っているのだ」と考えながら軍事的な職に従事することと、「本来はあるべきでない仕事だが」という部分をふさいで(否認して)この職に従事することと、どちらがその人にとって「より良い」か。
ぼくは、前者だと考えるのである。


そして、そうした仕事にこの人を就かせている責任は、もちろんこの社会(世界)に生きるわれわれ皆が一様に負っているわけである。
軍事的な仕事を神聖化したり美化することによって、それらの苦しい仕事に(構造上)一定数の他人を追いやり続けている自分たち自身の有責性を否認するべきではないと思うのだ。

*1:このことに異論のある人も居るだろうが、ここではこの前提に立ってみる。