イージス艦・批判の責任

毎日新聞の報道によると(3日付3面)福田首相は2日、首相官邸で記者団に石破氏の続投を強調した折り、行方不明になっている吉清さん親子の家族からの手紙に、

『石破氏にしっかりと事故が起こらない体制を作ってほしい。決して辞めればいいというものではない』


と書いてあったことを明らかにしたそうである。


大臣を解任するかどうかという政治判断の責任を一私人の言葉に、しかも国の責任によって起きた事故の被害家族の私信の内容を明かしてしまうことで委ね、自分たちの政治的地位の維持に利用しようとは、恐れ入った了見だ。
ここには、「被害者がこう言っているのだから」ということを盾のようにして、多くを語ることが出来ない、傷つけられた弱い立場の人々の存在と言葉を利用することで目的を果たしていこうとする、権力を持つ側の悪質な政治姿勢が見てとれると思う。
いわば強いられた沈黙や表現を、その込められた意味に対する人間的な想像力を遮断しながら、強いている側が横領し利用するのである。


ところで、ちょうどこの記事の横に掲載されていた以下のコラムは、これと同様の手法をより洗練された形で用いているものだといえる。

石破の試練と不祥事の深層=専門編集委員山田孝男
http://mainichi.jp/select/seiji/fuchisou/news/20080303ddm003070064000c.html



ここで山田は、石破茂の国会答弁をめぐる「評論家たち」の批判を揶揄した後、今回の事件の原因を分析する。
山田は「表層」と「深層」とに分けているが、要は次の一点であろう。

この混乱は旧軍の伝統とはおそらく関係がない。軍秘の取り扱い以前の、法律に対する無知、世間知らず、素朴な身内かばい。どこの会社でもありそうな風景である。サラリーマンと小役人ばかりの自衛隊になってしまった。人材の劣化が深刻だということだ。


こうした事情への印象は、イージス艦の艦長や海自の幹部の地元への謝罪の様子を報道する映像を見ていても、多くの人々が直感していたことだろう。
ところでここで山田は、こうした自衛隊内部の制度的な問題を、国防通である石破が早くから認識し改革しようとしていたことを指摘するのである。

戦争を知らない背広組がデスクプランをもてあそび、制服組の士気は下がっている。


 石破はこの問題意識を踏まえ、事故前の2月初め、制服組と背広組を統合再編する大胆な防衛省改革案を公表した。踏み込めるかどうか、瀬戸際だ。


そして、この後、やはり多くの人々の共感を呼ぶであろう地元の漁師の人たちの寡黙な「たたずまい」が引き合いに出され、こう結ばれる。

一連の事故報道で印象に残るのは、房州勝浦の漁師たちのたたずまいだ。捜索し、祈り、助け合う同郷一党の連帯と漁協組合長の穏やかな貫禄。行方不明の吉清治夫さんの親族の男性が、謝罪に訪れたイージス艦の艦長を気遣い、「一番つらいのは艦長かもしれん。男が泣くとはそういうときだ」と漏らしたという逸話は泣ける。


 痛恨の勝浦漁港の静けさに比べ、さして切実でもない評論家の激高ぶりはどうか。少しは恥じるがいい。


あの漁師の人々の姿に感銘を受けない人はいないだろうが、問題はそれがこの文章において、どのように利用されているかだ。


今回の事件の構造的な背景のひとつに、自衛隊(とくに海自なのかどうかは、ぼくには分からないが)の組織上の問題があったことは間違いないだろう。
幹部や指揮官たちが「小役人」のようになってしまっていることが、現在露呈しているような無責任なこの組織のあり方の重要な一因であることは、その通りだと思う。
そして、石破はたしかに、その欠点を是正して、「よりよき組織(また自衛隊)」を作ろうとしたのであろう。


だが、それは結局のところ、軍事のためのよりよき組織を作る、ということである。
軍事は、殺害・殺傷や破壊をその本性とせざるをえないものであるから、これはつまり「人殺しに関するよりよい組織を作る」プランであるという他ないのである。


ぼくは、それが不要な努力、悪い努力であると言いたいわけではない。
現在の世界では、たしかに国防上の組織は必要だろう。
だから、それを今回のような「平時」における事故を引き起こさぬような、あるいは軍事上の目的にそぐわぬ被害を生じさせぬような、そしてその責任が不明確となることのないような「よりよい組織」を作るための努力は、やはり必要不可欠ではある。


だが繰り替えすが、軍事的な組織は、人殺しや破壊ということを根底に組み込んでおらざるをえないのである。
「人殺しや破壊」が倫理上本来は許されないことだとするなら、それを根底に有している組織が、その論理の内部でのみどんな「改革」を行ったところで、それは必ず矛盾を生じさせ、人命の軽視ということを結果せざるをえないはずだ。
それは「よりよき組織」のためのではあっても、決して人々の命や存在にとってのよりよき行為とはなりえない種類の改革である。
石破茂の国会答弁の出鱈目さは、政治家個人の資質というよりも、そうした不完全な基盤の上に立った「正義」や「改革」というものの、必然的な結果としてとらえるべきだろう。このようなところに、「人の命」を扱う政治のまともな言説など生れるはずがないのである。


だとすると、そこに必要なのは、その「根底」から派生してくるに違いないさまざまな歪みや不正、暴力に対する批判を、外部から不断に行っていくということである。
山田が 『痛恨の勝浦漁港の静けさに比べ、さして切実でもない評論家の激高ぶりはどうか。少しは恥じるがいい。』と書くとき、むしろ不断に行われるべきそうした「批判」の必要性を、被害を受けた人々の態度を引き合いに出すことによって、封じていることになるのだ。


漁師の人々の姿や言葉に触れてわれわれが受けとれること、受けとるべきことは、ここに虐げられ傷つけられた人たちが居る、という一事である。
ならば、そこから生れるものは、その事実をないがしろにしないような社会を作っていく不断の努力を放棄しないという決意以外にないであろう。
われわれは不断に「批判」者である責任を、自国のあり方によって傷つけられたこれら多くの人々に対して負っているのである。