鵜飼哲『主権のかなたで』

主権のかなたで

主権のかなたで



著者の90年代半ばからの文章、発言を収めたこの本は、しかしまさに今読まれるべきアクチュアルな言葉と思考で満たされている。
底知れぬ淵にも似て、恐ろしく多くの示唆に富んだ書物だが、ここではとくにいくつかの論点に絞って、抜粋しながら、共に考えていきたい。



雑誌『現代思想』の2003年3月号に掲載された『「地獄への道は善意で敷き詰められている」』という題の談話文は、「さまざまな暴力間の差異」を思考する重要な暴力(批判)論だが、そのなかで特に注目されることのひとつは、次の点である。

現在われわれは、「テロリズム」という言葉で、<九・一一>のような行動とパレスチナの「自爆攻撃」を同じ枠に入れて論じることはできません。(p240)


著者によれば、パレスチナの闘争は、広い意味で、「領土をめぐる闘争」という古典的な範疇に入るのに対して、「アルカーイダのような形の武装組織には、もはや領土や国家主権をめぐる政治的な目標が」ないということが、大きな違いであるという。
この後者のタイプの暴力、テロルについて、著者は「白色テロル」という言葉も使っているが、要するにそれは、左翼的でないテロル、反革命的なテロル(暴力)ということである。
こうした暴力が生じてくる背景には、もはや「生きるということについての平等がまったく」(p243)ないという世界の現状、「人ひとりひとりの命の「値段」がとんでもなく違うという事実」(p198)があるのであり、そこから人々は、せめて「死と暴力の前での平等」を求めて、こうしたいわば目的なき暴力、破壊へと駆り立てられていく、と考える。
そして著者は、このタイプの暴力を批判するには、「いちど宗教の問いをくぐらなければならない」(p241)とも語るのである。

しかし、「豊かさの前での不平等」が「暴力の前での平等」に転化される時、その間に「死の文化」と呼ぶべきある媒介が働いていることを否定することはできない。(p198)


絶対的な生の不平等という現実、意識が、目的なき暴力の暴発(これは、自己自身に対するものも含むだろう)を帰結するという回路は、自然なもの、変更しえないものではなく、そこに文化的な媒介が働いているのだ、というわけである。
目的が定められないような他者への突発的な、もしくは計画的な暴力、自殺、周囲から見殺しにされるかのような過労死、あるいは名誉の死や尊厳死への賛美。
著者の、現在の世界と、とりわけ日本社会に対する批判の眼差しは、この「死の文化」を暴き出そうとする静かな怒りの感情に充たされているように思える。


だが、「宗教の問い」と関係するような、この目的なき暴力(テロル)の文化的な基盤、起源とは、どんなものだろうか?
無論、このことは「承認」に関係しているだろう。
本書の冒頭に収められた論考『歓待の思考』のなかで、著者は重要な考察をしている。それは、生まれてきたときには、誰もがこの世に「客」としてやってくるほかはないのであり、そこでいわば最初の歓待の経験をするということに関してである。

この「起源」の歓待は、単に、その名が示すような「歓び」だったわけではないだろう。この世界の「客」となったばかりの新生児は、たとえ歓待を受けようと、まだ、笑ってはいない。「初めに」「客」であったことは、おそらく、死にも比すべき外傷でさえあるだろう。主権が主権である限りその核に持ち続ける残酷さ、かつての日本の外務官僚の、「外国人は煮て食おうと焼いて食おうと主権国家の自由」という発言にみられるような恐るべき残酷さは、このような外傷に対する反動として考察したとき、はじめてその本質が垣間見えるのではないだろうか。(p15)


この世に生を受けて生きるということの、どうしようもない不快さ、居心地の悪さのような感情、それが外傷のように心の底に残り、「主権」という仕組みのもとで排外的な心情、暴力を生み出していくこと。
「主権」国家の枠のなかにやってきて、その安定を脅かし、「初めに」「客」であったという不快な事実、記憶を私に嫌でも思い出させる存在(他者)に対する憎悪と暴力。
より広く、日常の生活、空間に、まるで「客」のように到来する存在(たとえば「路上生活者」)に対する、激しい排他的な感情の噴出の根にあるもの。
それらが、著者が「死の文化」と呼ぶものの内実に、深く関わっているのではないかと思う。
「生まれないほうがよかった」(杉田俊介加藤秀一)という植物的な言葉がはらんでいる、排他的な(ナショナルな)暴力の悪意と情動?


しかしこの、外傷的な不快さと共に、われわれは、ぼくは、それでも生きることを選択し続けられるだろうか?
別の問い方をするなら、なんらかの有効な承認のシステムを、ぼくたちは「豊かさの前での不平等」のさなかで、それらに抗しながら、打ち立てることが出来るか?


本書に収められた諸論考のなかでも、『ある情動の未来―<恥>の歴史性をめぐって―』は、ひときわ豊かな示唆を与えてくれる思考である。
このなかで著者は、ユダヤキリスト教的な「罪責」の概念の範囲をはみ出す「恥」という情動の次元の重要性を語っている。それはとくに、プリモ・レーヴィやドゥルーズが見出した「人間であることの恥」という情動の体験に関係する。

それは「人間」への帰属自体に対する違和感、抵抗感を表明する。(p49)


この観点が重要なのは、それがわれわれの現実の生における「承認」のあり方、その有無をひそかに規定している(主権国家の)ナショナルな枠組みが持つ情動の威力に、その同じ次元において対抗しうるものだと思われるからである。

われわれもまた、恥を情動として思考する立場を選択する。それは、われわれの関心の焦点のひとつであるナショナリズム、とりわけそのダイナミズムの分析にこの概念が不可欠であり、そして、恥、恥辱、屈辱といった情動の系列が、ナショナル・アフェクトと呼ぶべきものの主要な成分だからである。それと同時に、このようなナショナリズムの「彼岸」も、今日、情動の単なる否定によってではなく、つまり理念のレベルだけでなく情動のレベルでも、探られ、求められ、考えられなくてはならないからである。「人間であることの恥」までも発見されてしまった時代だからこそ、情動が同時に「国民」と「人間」の外部へ漂い出す可能性もまた、はじめて垣間見えてきている、あるいは予感されてきているのではないだろうか。(p55)


「人間」という枠をもはみ出しながら「恥」という情動を思考することは、われわれの生の可能性を、主権の論理を踏み越えて、他者(客)へと開いていく。
われわれは、この「恥」の、「情動」の不快さの中に踏みとどまることを通して、未曾有の「承認」と、おそらくは「連帯」の道を見出していく。
それは、「宗教」以前の、同じことだが主権国家のナショナルな装置以前の、われわれの(他者の)宗教の創出と呼べるかもしれない。