米兵暴行事件の報道に思う

沖縄北谷町で起きた米兵による暴行事件の報道を見ていて思うこと。


新聞やテレビなどでは、今回の事件の発生を受けて、怒りや憤りが、島に広がっているとか、県民の間に広がっているという表現が使われている。
だが、考えるべきなのは、今回の事件(出来事)における暴力の被害の当事者は誰であるかということ、そこから反転して、沖縄の人々(県民、住民)がその被害の当事者であるような暴力とはどんなものか、ということだと思う。


重要なのは、ある暴力被害の当事者性は、個別の暴力の具体性に応じてしか発生しないだろう、ということである。
今回の事件で、暴力によって傷を受けた当事者は、まず当の少女(女性)であり、次いで肉親などそれに近い人々だろう。
沖縄県民という総体は、決して今回の事件(の暴力)の当事者ではない。
もちろん、深い傷を受けた本人の境遇に思いを寄せ、悲しみや怒りを感じ、それを表明する権利は誰にもある。だが、その意味でなら、その怒りや悲しみを共有するべきなのは、「島の人々」や「沖縄県民」でなく、日本人全員、アメリカ人全員、いや全ての人間たちということになろう。
ここには、他人に共感して怒りや悲しみを感じうる人と、そうでない人という区別しかありえない。


こうした事件の場合、「少女暴行」という事件の性格、またその言葉が、沖縄県民という特定の集団の「怒り」や(誇りを傷つけられた)「憤り」と結びつけて語られるのは、奇妙なことである。
それはひとつには、事件の当事者が受けた暴力と傷の具体性が集団の心情と置き換えられて消し去られてしまうかのようだからであり、もうひとつには、まるでこのような事件が起きなければ、「怒り」や「憤り」が発するような状況が沖縄の日常には存在していないかのような印象を与えるからである。


事実は、沖縄に行使されている暴力は、今回のような事件に限らず、まったく日常的なものである。
本島をはじめ、沖縄という地域全体が、軍事基地という人を殺し自分たちも殺されてしまう状況を作り出すための施設によって占拠され、自然や生活が根こそぎ改変されるばかりでなく、経済的な依存をはじめとして、その基地という現実に適応して生活すること、その不条理と暴力に順応することを強いられているのである。
今回のような事件は、沖縄という総体にとってみれば、そのような日常の暴力性を、たまたまある形で露呈させたというだけのことである。
今回の事件に対して(無論、95年の事件においても)、沖縄の人々が発している怒りや憤りの感情とは、他ならぬこの日常的な暴力の構造に対する、まさしく具体的な怒りなのであり、「沖縄県民」というような集合的な意識によって媒介された、たとえば「集団の誇りを傷つけられた」というような抽象的な(被害女性の当事者性を横領するような)被害意識ではないのである。


そして、このような暴力を沖縄に対して日々行使しているのは、アメリカであり日本であり、日本の社会を構成しているわれわれ自身でなくて、誰だと言うのか?


ところが日本(「本土」)のメディアは、今回のような事件に対する「県民の」怒りや憤りを強調することで、沖縄の日常が常にひどい暴力を被っているということ、またその暴力を是認する態度を沖縄以外の地域に住むわれわれがとり続けることによって生活しているという事実を、見えなくさせているのである。
暴力も傷も、常に具体的であり、怒りはこの現実(構造)を作り出している全ての現実的な対象に差し向けられていることを、われわれは身と心に刻むべきなのだ。